以上の考察によって、言語論のエッセンスを把握してきたことを期待している。
4クラスでだけ言及できた「チコちゃんに叱られる」の話もここに記しておく。
チコちゃんからの問いかけは「なぜ人間だけ絵を描けるのか?」だった。チンパンジーに絵筆を持たせて、キャンパスに抽象画のようなものを描かせることはできる。だがチンパンジー本人は「絵を描いている」自覚はあるまい。赤ん坊にクレヨンを持たせても同様。目の前の色が自分の手の運動と共に変わっていくことに驚き、面白がっているかもしれないが、それは「絵を描いている」わけではない。ある種の魚は水底に模様のようなものを描くが、それは「絵」か? ならば風も砂に「絵」を描いているのか?
ところが人間は3歳くらいになると「絵を描く」。他の生物にそれができないとすると、人間だがなぜそれができるのか?
解説者は齋藤亜矢だった。聞き覚えがなければならない。「木を見る、森を見る」の筆者だ。
彼女の答えは「人間は言葉を使えるから」だった。
それが「お母さん」だったり「ブーブー」だったり「お花」だったりする「絵」は、そのような表象を子供が持つことを可能にする言葉の存在なくしては描かれない。
名前を知らない「あれ」であっても、「あれ」という言葉によってしかそれは認識できない。認識したものしか「絵に描く」ことはできない。
この解答は、今回の言葉と表象(認識)の関係がそのまま応用されていることがわかるだろう。
さらにこの言語論の認識は、「山月記」の前の一連の考察にも関係のある認識がある。
議論の中であちこちで聞こえていたが、今回の考察が「環世界」につながっていそうだという連想はみんな働いただろうか?
「環世界」と言えば「フィルターバブル」だ。
我々はみんなフィルターされた泡の中にいる。ネットが社会に与える影響を論じる際のフィルターは検索エンジンや広告のアルゴリズムのことだが、生物全般にとって、認識は常にフィルタリングされている。フィルターを通した世界しか認識していないことを示すのが生物学の「環世界」という概念だ。
ではその場合のフィルターとは何か?
これは前田英樹の「物と身体」で、身体が生物にとっての世界認識の手がかりなのだと述べられていた。身体は認識の手がかりでもあり制約でもある。
ドミニク・チェンが「未来をつくる言葉」で「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」と述べているのに対し、授業では「身体」に対比されるものとして「文化」という言葉を想起する考察を展開した。
その際「文化」という語で示したいものの代表として「言語」を挙げたはずだが、それは今回の言語論を視野に入れてのことだった。
生物は身体という制約によって世界認識を規定されている。さらに人間という生物は言語という制約によって世界認識を規定されている。
同時に、身体がなければ生物は世界を認識することはできず、言葉がなければ人間は世界を「人間として」認識することはできない。
さらにこの考え方は1年の終盤の考察にもつながってくるはずだ。それこそ齋藤亜矢だ。スキーマとゲシュタルトがまさしくこの話と重なってくる。
言葉はスキーマ(型・枠組み)であり、表象がゲシュタルトに対応する。「犬」は「犬」というスキーマにあてはめたときに「犬」というゲシュタルトを生成する。「犬と猫」というスキーマがなければ「犬」と「猫」という別々のゲシュタルトは生まれない。よって区別もつかない。
本当はこの後「記号論と生のリアリティ」や「ことばへの問い」へ戻って、さらに読解をしなおそうとも思っていたのだが、結局時間がとれずに前期が終わる。
「文字禍」解釈もお預けになった。引き返そうにも、授業者の想定の結論だけ言ってもつまらんし、どうしたものか。
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