2023年9月8日金曜日

記号論・言語論 8 議論を咬み合わせる

 議論をかみ合わせることはとても難しいと、小論文を読んでも、クラスの議論を聞いても感ずる。

 どちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。山鳥支持を唱えようとすると、単に「…と山鳥は言っている」ということを言っているだけにしかなっていない場合が多い。それはそうだが、それが山鳥の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。

 これでは水掛け論だ。互いが、自分の信じていることを、感覚に基づいて主張し合っているだけである。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や異論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。

 例を挙げることは有効だ。自分の説の論拠として、相手の説の反証として。

 ただし、一つの例でそれができたとしても、別の例は自説への反証になるかもしれず、相手側も論拠となる別の例を挙げるかもしれない。

 ただ一つの例がすべてを解決するわけではないことには注意が必要だ。


 最も素朴な疑問は、山鳥派から鈴木派へのこのような問いだろう。

「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的・非現実的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 だが次のように言うこともできる。

山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後でタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。あるいは自分でその名前を作ったりしたら、他人に通じないオリジナルな名前が無限にできるばかりで、そのようなものを「言葉」とは呼べない。 

 山鳥派はどう答えるだろう?


 こんな風に論点を定めて議論する。

 あるいは議論をかみ合わせるためにには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の是非を問う必要がある。

 たとえば次の部分。

ヒトはなぜ

 われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


ものとことば

 ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。/実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。

 上の二つには対応した要素がある。例えばこういう箇所を手がかりに両者を比較する。


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