各言語が、相互におおよそ対応していると思われる表象に対して、それぞれが全く異なった音声をあてている。
また、言葉の示す表象はそれぞれ指し示す範囲が違う。
この二つの事実は「言葉が先か表象が先か?」の議論にどう影響するか?
前回見たとおり、どちらの根拠にもならない。ただ双方がそうした事実を自分の説で説明しているというだけで、反対の立場から同じ事実を説明することができる。
両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が、「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が頻出しているのも、ソシュールが使った表現に由来する。
そのソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」だ。
「恣意」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。
各言語による名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。
ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対して「恣意的」にどういう形態をもとりうる。
それだけではなく言語は「水/Water」の例のように、対象の切り分け方についても「恣意的」だ。どうとでも切り分けていいのだから、言葉の示す表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。
二つの「恣意性」は同じ原理から派生している。それは「言語は事象とは独立した構造をつくっている」ということだ。だから事象に対してどのような形態をもとりうるし、事象をどのように切り分けることもできる。
このことをソシュールは「言語の恣意性」として提起した。
ソシュールはなぜこんな説を唱えたのか?
これはそれまでの「カタログ言語観」のカウンターとして提起された考え方なのだ。
「カタログ言語観」では、事象はあらかじめそのように切り分けられて世界に存在し、人間はそれをそのまま認識し、そこに後から名前をつけた、と考える。つまり言語は事象に従う。
だがソシュールは言語は事象から独立した独自の構造を作っている、と主張する。そのことを示すのが「言語の恣意性」なのだ。
鈴木が「言葉が先」という言い方で主張したいのは、こうしたソシュールの考え方であり、山鳥はそれへの反動として「カタログ言語観」的な言語論を展開しているということになる。
現在の言語学はソシュールの影響下にあるから、目にする言語論はソシュール的であることが多く、むしろ言語学の専門家ではない山鳥のような書き手が、一見、反動的な主張をする。
だが主流でないことが間違っていることを意味するわけではない。
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