さて、山鳥重と鈴木孝夫の対立点を確認しよう。
提出された小論文には、両者は対立していない、どちらも正しいという立場を表明しているものも多かったが、それは本当にそうなのか?
単に両論を併記してどちらも正しいと言うだけならば簡単だ。
だが対立が明らかであるときに、「どちらも正しい」ということはそれほど簡単ではない。まずそのことを明らかにする。
鈴木 ものとことば
ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている
わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。
山鳥 ヒトはなぜことばを使えるか
まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。
上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。何度も言うが、シンプルに表現することは、問題を扱う上で利便性が増す(簡単に表現することでこぼれ落ちてしまうものがあることにも留意が必要だが)。
- 鈴木 言葉が先にあってものが後
- 山鳥 心が先で言葉が後
だが「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」では比較できない。表現をそろえよう。
鈴木の言う「もの」とは、物理的な実在ではなく、その存在を「もの」として認識している、その認識のことだ。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉がそれに対応している。
- 鈴木 まず言葉があって表象が存在できるようになる
- 山鳥 まず表象があって言葉が後から貼り付けられる
これで比較が可能になった。
言葉が先か? 表象が先か?
さらに両者の命題を論理学で言うところの「逆」にしてみる。
- 鈴木 表象があるときには、まず言葉があるはずだ。
- 山鳥 言葉があるときには、まず表象があるはずだ。
さらにこの「対偶」をとる。
- 鈴木 言葉がなければ表象は存在しない。
- 山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。
「裏」「逆」「対偶」などの言い換えは、論理学的な真偽の判断にかかわる問題であり、「逆」「裏」は「対偶」とは違って元の命題と真偽が一致するわけではないが、ともあれ言おうとすることが、文の意味を精確に掴もうとすることにつながる。
これで対立点が整理できた。二人の主張は真っ向から対立しているように見える。
言語学者である鈴木が「ことばが先」といい、精神・神経学者である山鳥が「心が先」といっているのは、なんだか図式的にはまりすぎていて、そういう意味では納得されるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問は残る。
このように対立を明確にして、それでも対立はない、どちらも正しいと言うためには、それなりに精妙な議論が必要なはずだ。
問題点を「言葉がなくても表象は存在しうるか?」と表現してもいい。鈴木は否で山鳥は是だ。
この問いの是非をめぐる対立をどう決着させるか?
0 件のコメント:
コメントを投稿