小論文のお題は山鳥vs鈴木だ。なぜ山鳥vs熊野or内田にしなかったのか?
熊野純彦の文章は前述した通り、いわば論証抜きに結論だけを述べた文章だ。主張だけをして論拠を言わない人とは議論ができない。
また内田の文章はあくまでソシュールの考え方の紹介、という体裁をとっている。他人の代弁をしている人と対決しようにも、責任を他に回されては対決にならない。
鈴木孝夫の主張も、実はソシュールの受け売りなのだが、とりあえずは自分の意見のような体裁で語ってはいるので、山鳥vs鈴木の形で論ずることは可能なのだ。
もうひとつ。
二人の論は悪く言えば隙あるいは穴、いわば「突っ込みどころ」、良く言えば余白のある文章なのだ。強固な論理にとりつくしまもない文章では、それこそとりつく「しま(=手がかり)」がない。
あえて隙のある文章同士をぶつけることで生ずる議論を考察につなげる。
とはいえ、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章だ。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。
だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。
明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのだ。
小論文としてまとめるまでの留意点をいくつか。
それぞれの見解を比較し、その問題自体について考えるべきではある。だが、あくまでその比較は具体的な論述に基づいて行われなければならない。そうすると、その論述自体も検討しなければならない。
論述というのは、選ぶ言葉であり、論拠の適否であり、部分相互の整合性であり…。
そうした細部について検討することが、そうした論述によって論じられた「問題」自体についての考察を深めることにつながる。
例えば両者の見解は実は見かけほどには相違していないのだ、という内田と長田の例のような結論にいたるかもしれない。
確かに二人の言っていることには共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木と重なってくるような印象もある。
そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違があるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。
それを解きほぐすことが問題自体を考えることにつながる。
議論する時間のあったクラスで授業の最後に聞いてみた。
今のところ山鳥と鈴木の論のどちらに納得するか?
それぞれの文章に挙手したのは、ほとんど同じくらいの人数だった。
よしよし。ねらいどおりだ。そうあってほしい。それでこそ、その対立を越えてどんな結論にたどりつくのかが楽しみだ。
是非チャレンジしてほしい。
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