「記号論と生のリアリティ」にはソシュールが記号論を創設したと書いてあるが、ソシュールはどちらかというと現代の言語学の基礎を築いたという言い方の方が一般的だ。
記号論と言語学というのがどういう関係になっているかという問題には、ここでは立ち入らない。ソシュールは書物を残さなかったが、大学の講義の内容を弟子がまとめた「一般言語学講義」の中で「記号学」という用語が提案されている。
「論」か「学」かも言い方に迷う。「論」は考え方の中身で「学」はアカデミックな場での位置づけ、といったところか。
前回予告の通り、まず考え方に慣れる。
「論理国語」の教科書でこの分野の問題を扱っている評論文、長田弘の「アイオワの玉葱」と熊野純彦の「ことばへの問い」を読む。
さしあたって、ぼーっと読まないために、要約をする。
必ず自分の頭で、全員やらねばならない。誰かが要約したものを聞いても意味はない。
「アイオワの玉葱」は「二文で」と指定した。すると、概ね次のような趣旨の二文を考えた者が多かった。
- 言葉を通して世界を捉える捉え方は言葉(母語)によって違う。
- このずれを通して他者を理解することが大事だ。
以前、評論には「認識」と「主張」の部分があるという言及をしたことがある(あるいはこれ)。
上の二文は上が「認識」で下が「主張」に近い。
こんなふうに言ってみると、「認識」の部分は去年の今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」に通じ、「主張」の部分は今年のドミニク・チェン「未来をつくる言葉」に通じることがわかる。
ところで、授業者の想定していたのは、「認識」にあたる一文を二つに分けた二文だった。「言葉を通して世界を捉える捉え方は」といった言い方が、既に一つの内容として独立させられるはずだ。
- 我々は言葉を通して世界を捉える。
- 言葉(母語)によって捉え方は異なる。
要約は、字数が指定されていれば、その中になるべく原文の論旨を詰め込んで、なおかつすっきり読める文章を作ろうとすべきだ。
一方、ここでの一文要約、二文要約(三…四…)は、なるべく単純な構造の文にすることが望ましい。5文節以内。短く言おうとすることが、本質・核心がなんなのかを考えさせる。
そして、短くした要約は、書き取るにせよ覚えるにせよ、口頭で発言するにせよ、取り回しに便利だ。あの文章では…と言及するときに、なるべく短くしておくことは大いなるメリットがある。
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