2023年7月5日水曜日

山月記 14 どうすればよかったか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?


 身も蓋もない言い方をするならば、もっと人と交われば良かったのだ。あるいはもっと謙虚になれば良かったのだ。

 確かにそれができれば李徴の不幸の大半は解消するだろう。

 だがことはそれほど単純なのだろうか?

 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 C組Iさんは「中途半端に終わらせない」と言った。核心をついた表現だ。

 授業者が用意していた表現は「やりきる」だ。李徴は「中途半端」なまま「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのだ。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。

 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。

 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られる。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりきる」ことで望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。袁傪がそうであるように。李徵にもそれだけの能力があったはずだ。

 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、公僕として地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。


 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのだ。

 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。


 李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。

 「臆病」ゆえに詩を発表することができない。だから「自尊心」を満足させることはできない。といって「自尊心」ゆえにその状態に満足することもできない。どちらに安住することもできず、心の平穏はおとずれない。

 動きのとれないまま心の平穏が訪れないジレンマも、動き出してしまえば事態は変わる。福岡伸一の言う「動的平衡」とは動き続けることこそ生命の平衡は保たれることを示す概念だ。ジレンマの中で動けないでいると、徐々に朽ちていくしかない。動き出すことによってのみ、生き続けることができる。


 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。

 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?


 先に「身勝手」「利己的」という言葉をいったん提示してみたが、これは上記の悪循環にどう位置づけるかが難しい。

 それよりもここでは「我執」「自意識」という言葉を提案したい。

 「我執」とは文字通り「自分に執着すること」だ。「自尊心」に通じる要素もあるが、「執着」という言葉には、それにとらわれてしまっている、といったニュアンスが表れている。

 李徵の執着は再帰的な循環の中で増幅し、ジレンマによって解決不可能なまま李徵をとらえ続ける。

 「自意識」は、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」だ。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのだ。

 最近では「承認欲求」という言葉も頻繁に使われるようになった。李徵は自分の存在意義にとらわれている。そしてそれは他人から評価を必要とする。なのに人間でいるとき、李徵はその機会を自ら避けたのだ。「承認欲求」は満たされない。

 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた「とらわれ」を指していると考えることができる。李徴は今でも「俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。

 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが燃え広がって制御できなくなり、遂には李徴を虎に変えてしまう。


 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に満たされない。

 これは我々のよく思い当たる感覚だ。

 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。

 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みにほかならない。


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