「山月記」の後、同じ中島敦の「文字禍」を読む。
「禍」という字はここ3年余りですっかり目に耳に馴染んだ。訓読みでは何と読むか? というのはどういう意味か、という質問だが「わざわい」と読めた人も多い。
「コロナ禍」でウイルスが蔓延したように「文字禍」では文字の霊が跳梁する話だ。
中島敦から言語論への接続に「文字禍」が使えるんじゃないかというのは、実は教育実習生のK君の発案だ。
授業者も「文字禍」を読んだことはあったのだが、それが言語論へつながるとは全く考えたことはなかった。
ところが今回、そう意識して読んでみるとこれがまたあつらえたようにぴったりの教材なのだった。
とりわけ「文学国語」収録の「記号論と生のリアリティ」に、どうみても、まんま「似ている」と思われる記述があることに驚く。
だが、「似ている」からなんだ?
それは考える糸口になるということだ。
「文字禍」は、それ自体がもう考えるべき小説だ。「山月記」のように、読んだだけでそれなりに「わかる」と感ずるような小説ではない。しかも、わからなくてもいい、というような小説ではない。
例えば「夢十夜」の「第一夜」は読んだだけで「わかる」し、あれ以上に「わかる」必要もないような小説だ。それで十分魅力的だ。
だが「第六夜」はそれに比べて読者に「わからない」という感覚を抱かせる小説だ。この差が何なのかは去年分析した。去年の考察を短く再現する。「第一夜」は「喪失と回復」という「物語」の形式にあてはめられるので「理解」できるが、「第六夜」はそうした形式がなんなのかわからない。となると読者は宙吊りにされて、「明治の木には仁王が埋まっていない」というのが何を意味する隠喩なのかを理解しないといけないのだと迫られている気になるのだ。「第一夜」ではこうした宙吊りは回避されているから「百年待つ」とはどういう意味か、などと考えなくてもいい(が、そういう余計なことを考えてしまう人が世の中にはいる)。
この「形式」のことを去年は「スキーマ」などとも呼んだ。スキーマにあてはめてゲシュタルトができることを、我々は「わかる」といっている。
さて「文字禍」は、そのユーモアに満ちた文体が、小説としての完成度の高さを証しているのはわかるのだが、結局のところ何を言っているのか「わからない」。「山月記」のように、もやもやと誰しも身に覚えのある煩悶にもだえる男の話だと「わかる」わけではない。これを掴まえるスキーマはどのようなものか?
「記号論と生のリアリティ」が、例えばそれを考える糸口になる。
だが一方で「記号論と生のリアリティ」もまた「わからない」。
この文章を読むには「記号論」という分野がどのようなもので、どんな問題を扱っているのかについての基礎的な認識が必要で、この文章が論じているのが「その先」なのだということは、その前提がなければわからない。確かにそれについての言及は文中にはあるのだが、まああれだけでは全然足りない(実は筑摩書房の「現代の国語」には内田樹の「ことばとは何か」という文章が載っていて、少なくともこれを読んでいる必要はある)。
だから、みんな、この文章もまた「文字禍」とは別の意味でとりつくしまがないと感ずるはずだ。
そこでさらに別の文章を読んで、こうした「問題」がそもそもどのようなものなのかを把握する。
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