2023年7月5日水曜日

山月記 補遺 文学は大学入試に役立つか?

 「山月記」という小説はこれまで日本人にとっての基礎教養とも呼ぶべき、認知度の高い、人口に膾炙した作品だった(新教育課程で「文学国語」「論理国語」と分かれたことで「山月記」を読まない日本人もこれから増えてくると予想されるが)。

 だが教材としては授業者にとって「こころ」や「羅生門」に比べると魅力に乏しい作品でもある。テキストが、読解によって、最初から「わかっている」ことと全く違う姿を露わにする、というような劇的な体験を保証するわけではない、というところが。


 ところでこの「山月記」について、授業者が本校に着任して1年目に、とある国語科の先生から聞いた印象的な発言は忘れがたい。とても教訓的なので時々引用しているから、昨年の授業で、どこかで話したクラスもあるかもしれない。

 その先生は「李徵はなぜ虎になったのか? などという問題に何の意味があるのかまったくわからない」と言ったのだった。

 それは、いかに生徒の「得点力」を上げるか、というのが議題の校内「研修会」における発言だった。

 最近の「学力」は「生きる力」という、いわば本質的な捉え方をされていて、それはとても結構なことなのだが、この時の議題の「得点力」とはそれよりもっと下世話な、シンプルに、大学入試で高得点を上げる力のことを指していた(つまりいかに東葛の進学実績を上げるかという議題なのだ)。

 とはいえ、そんなことは簡単ではない。あるいはとても簡単なことだ。単に勉強時間を増やせばいいのだ。だから宿題を出すか補習でもやるか、というくらいしかアイデアはない。

 で、問題の発言は、古典の補習はいくらでもやりたいが、現代文分野ではどんなふうにすると「得点力」が上がるのかまったくわからない、例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」などという問題が「得点力」アップにつながるとは全く思えない、という趣旨の意見だった。

 それはちょうど2学年が「山月記」をやっている時期で、本授業者はまさしく上記の問いを生徒に投げかけているところだった。発言者はそのことを知っていて、あえて問題提起をしたのだと思う。

 だがこの先生の発言は、自分ならそんなことはやらない、という意味ではなく、自分も授業でそういうことをやっていて、それが虚しい、という趣旨なのだった。

 なるほど。


 実はこの認識は日本中で多くの人に共有されている。国語の授業は何の役に立つのかと、多くの日本人が思っている。みんなも今までの人生でそう思ったことがあるに違いない。


 この発言が印象的だったのは、授業者自身は「なぜ虎になったか?」という問題は「得点力」のアップにつながると、当然のように信じているからであり、一方で、この先生の発言の趣旨はとてもよくわかったからでもある。

 これが1年生なら「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」でもいい。

 こうした問題について考察することは本当に「得点力」アップに資するか?


 当然、資する。むしろそれ以外にどんな「学習」が国語の「得点力」を上げるのか?
 いやもちろん漢字・語彙習得も、単に問題演習も、とりわけ文章の要約は有効だ。
 では授業でもそれらをやればいいのか?
 いや、それらと同様という以上に例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」について考えることは国語の「得点力」を上げることに有効であることは間違いない。
 だがまったくそうは思えないと言う国語教師がいて、世間の多くの人もそれに共感しているのだ。
 この認識の断絶は何事だ!?

 この断絶は、「李徵はなぜ虎になったのか?」という問いとその答え、その先にある作品の「主題」などというものが、学習内容だと思っている、という誤解が広く存在することによる。
 この誤解は、さらに、評論文における、文章の内容学習内容だと思う、という誤解に通じている。

 そうではない。国語の「学習内容」とは、学習活動を通じて養われる国語力だ。それは教材の文章の内容ではない。教材は教育「材」であって、いわば「手段」に過ぎない。それを使った言語活動によって培われる国語力が「目的」なのだ(「目的/手段」のセットはこのように使う)。
 このことを去年から「国語科は実技科目だ」と言っているのだ。

 だから「李徵はなぜ虎になったか?」の「答え」は確かに「得点力」アップには何の益にもならない。だからそれを教えたり理解させたりするつもりは授業者には全くないし、評論文の内容を理解させるつもりもない。
 ただ、考えろ、理解しろ、表現しろ、と要求する。これは、腕立て伏せ30回!とかグランド10周走れ、とか言ってるのと同じだ。生徒にそれをさせないで、教師の腕立て伏せを見物させてどうする?
 みんなはせっせと「李徵なぜ虎になったか?」を考えなさい。大学入試で求められている国語の「得点力」などというものはつまり総合的な「国語力」とでもいうべきもので、それは例えば上の問いに答えようとすることで「実技」的に鍛えるしかないものなのだ(実際はそれよりもうちょっと低レベルの「力」なのだが、それはテスト問題という制約のせいだ)。
 その効果はたやすく目に見えるほど簡単なものではないが、例えば学校の部活レベルであれ、経験者と未経験者の差は明らかに生ずるものなのだ。

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