「山月記」という小説はこれまで日本人にとっての基礎教養とも呼ぶべき、認知度の高い、人口に膾炙した作品だった(新教育課程で「文学国語」「論理国語」と分かれたことで「山月記」を読まない日本人もこれから増えてくると予想されるが)。
だが教材としては授業者にとって「こころ」や「羅生門」に比べると魅力に乏しい作品でもある。テキストが、読解によって、最初から「わかっている」ことと全く違う姿を露わにする、というような劇的な体験を保証するわけではない、というところが。
ところでこの「山月記」について、授業者が本校に着任して1年目に、とある国語科の先生から聞いた印象的な発言は忘れがたい。とても教訓的なので時々引用しているから、昨年の授業で、どこかで話したクラスもあるかもしれない。
その先生は「李徵はなぜ虎になったのか? などという問題に何の意味があるのかまったくわからない」と言ったのだった。
それは、いかに生徒の「得点力」を上げるか、というのが議題の校内「研修会」における発言だった。
最近の「学力」は「生きる力」という、いわば本質的な捉え方をされていて、それはとても結構なことなのだが、この時の議題の「得点力」とはそれよりもっと下世話な、シンプルに、大学入試で高得点を上げる力のことを指していた(つまりいかに東葛の進学実績を上げるかという議題なのだ)。
とはいえ、そんなことは簡単ではない。あるいはとても簡単なことだ。単に勉強時間を増やせばいいのだ。だから宿題を出すか補習でもやるか、というくらいしかアイデアはない。
で、問題の発言は、古典の補習はいくらでもやりたいが、現代文分野ではどんなふうにすると「得点力」が上がるのかまったくわからない、例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」などという問題が「得点力」アップにつながるとは全く思えない、という趣旨の意見だった。
それはちょうど2学年が「山月記」をやっている時期で、本授業者はまさしく上記の問いを生徒に投げかけているところだった。発言者はそのことを知っていて、あえて問題提起をしたのだと思う。
だがこの先生の発言は、自分ならそんなことはやらない、という意味ではなく、自分も授業でそういうことをやっていて、それが虚しい、という趣旨なのだった。
なるほど。
実はこの認識は日本中で多くの人に共有されている。国語の授業は何の役に立つのかと、多くの日本人が思っている。みんなも今までの人生でそう思ったことがあるに違いない。
この発言が印象的だったのは、授業者自身は「なぜ虎になったか?」という問題は「得点力」のアップにつながると、当然のように信じているからであり、一方で、この先生の発言の趣旨はとてもよくわかったからでもある。
これが1年生なら「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」でもいい。
こうした問題について考察することは本当に「得点力」アップに資するか?
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