ここに内田樹「ことばとは何か」を合わせる。また出た。どこにも出てくる内田樹。
しかもこの文章を中学時代に塾で読まされたという証言も聞いた。これは『寝ながら学べる構造主義』という本の一節で、内田樹で最初に広く売れた本であり、入試などにもずいぶん出題された。
「ことばとは何か」と見出しをつけられたこの部分は、現在使っている教科書と同じ筑摩書房の「現代の国語」に収録されていて、つまり筑摩書房で1年2年と続けて教科書を使っていれば、先に読んでいたものだ(我々が使っていた東京書籍では今井むつみの「言葉は世界を切り分ける」がそうした言語論の基礎的な考え方を述べた文章だった。ソシュールの名さえ出てこないが、題名からわかるとおり、これもまたソシュールに発する考え方なのだ)。
さて、内田の文章は『寝ながら学べる構造主義』という書名のとおり「構造主義」を紹介する本の一節であり、その重要人物であるソシュールの考え方を紹介したものだ。
その趣旨はといえば、「アイオワの玉葱」「ことばへの問い」それぞれの主旨をまとめた前回・前々回の内容そのままだ。だからここは長田弘や熊野純彦がソシュールの名を出さずに語っていることが、ソシュールの提起した問題の圏内にあることを把握できれば良い。
熊野が「問い」を問題にしていることの意味もこれで明らかになる。
熊野の「ことばより前にものや思いはあるか?」という問いは、ソシュールが「カタログ言語観」に対して投げかけた問い、つまりソシュール以降の言語論の出発点となる問いかけなのだ。
まずはソシュール的言語観について慣れることが目的なので、時間のないクラスでは読んで、上記のような共通の論旨を確認しておしまいだったが、時間のあるクラスで若干のお題を出して頭の体操をした。
内田はソシュールの考え方を次のように紹介している。
ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる。
一方で長田弘「アイオワの玉葱」に次の一節がある。
言葉は、本質的に命名である。
上記のように、「アイオワの玉葱」の主旨はソシュールの考え方と重なっているとも思えるのに、上に挙げた一節では全く反対の主張をしているように見える。どう考えたら良いのだろうか?
いくつかの班に発表してもらったが、それぞれうまく説明していた。一見反対の主張のように見えるが、長田の言おうとしていることとソシュールの考え方は反しているわけではない。その感触・直感に基づいて、それをうまくすり合わせるように言うのだ。
さてお題をもうひとつ。
ソシュールの名を挙げているのは実は「論理国語」の二編ではなく、「文学国語」の「記号論と生のリアリティ」の方だ。ここで立川健二はソシュールの思想を2箇条にまとめて紹介している。
- われわれ人間は「意味をになったもの」、すなわち記号しか認識することができない。
- 記号とはそれ自身のなかに意味をもっているのではなく、それをとりまく他の記号たちとの〈関係のネットワーク〉、すなわちシステムのなかでしか意味をもちえない。つまり、記号とは、実体ではなく、関係的・相対的な存在である
これは先の内田の〈ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる〉と、どのように一致しているか?
実は立川の2箇条のうちの2は、内田の文の次の一節と完全に一致する。
ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。
では1は?
上の一節の直前の次の一節が、例えばそれに対応する。
ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。
名前がつくまではその観念が存在しないということはすなわち「記号しか認識することができない」ということになる。
さて、ソシュールの考え方に馴染んできたところで、この言語観に異論を投げかける。
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