「ことばへの問い」は「問いと答えのセットで」と指定した。
題名の通り、文中にはさまざまな自問がある。「~か。」という問いかけの文末がいくつもある。それらをまとめる。
それは「答え」とセットで考える必要がある。むしろ、この文章の主旨を考えておいて、それが「答え」となるような「問い」を考えるのだ。
この操作によって、その文章の筆者の問題意識と結論を捉えることができる。これは評論文一般の読解に応用できるテクニックだ。
さて、この文章ではどのような「問い」が文中に置かれているか?
…ことばで語りつくすことができるだろうか。
…およそ考えることが可能だろうか。
…そうなのだろうか。
…ことではないだろうか。
これらの「問い」の中でどれが重要か、と考えてもいいが、「答え」の方からも迎えに行く。
言語を手にしてはじめて「ことばにはならない」ものごとに突きあたる。
これを「答え」とするような「問い」とは例えば次のようなものだ。
ことばにはならない思いは、ことばによる分節のかなたにあるものなのか?
この「問題提起と結論」は、もうちょっとシンプルに言うと、例えば次のように言える。
問い ことばより前にものや思いはあるか?
答え ない。
前に、問いを立てるには、答えがイエス/ノーにならないように、と言った。「なに・なぜ・どのように」などの疑問詞を入れなさい、と。
が、この文章についてはそれが難しい。なぜか?
この文章はいわば、論証をせずに結論を述べているといっていいような文章なのだ。筆者がある認識について語り、その過程でその認識について読者に想像させ、なるほどそうだと思わせることを意図するような論の展開になっていて、そうした理論がどのように成立しているかといった考察が途中で展開されていたりはしない。ただ、そうだ、と言っている。
したがって「なぜ・どのように」と言うことはできず、といって「何」といえば「ことば」しかないので、これも言うまでもないほど自明だ。
というわけでこの文章については疑問詞を含む問いを立てるのが適切ではなく、上記のような問いと答えのセットを敢えて組み合わせずとも次のように一文要約をしてしまえば良い、とも言える。
ことばによって初めて「ことばにならない」ものや思いさえも存在が可能になる。
だがそれでも敢えて「問い」として立てる意義があるのは、この文章が「ことばへの問い」と名付けられ、明らかに、繰り返し問いかけることで書かれているからだ。
この文章が、その問題意識をあからさまな「問い」という形で示すことの意味は何か?
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