いよいよ考察は最終段階、「山月記」読解の大詰めだ。
以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことだ。その論理の道筋を明示するのだ。
あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の再帰的な循環を説明してみよう。
尊大・自尊心
↓ ↑
臆病・羞恥心
同じ方向性の形容・被形容をまとめたとき、下への因果は比較的たやすく説明できる。
因果を示すというのは「だから」で両者をつなぐということだ(あるいは逆方向に「なぜなら」でつなぐ)。
「臆病・羞恥心」とは人との交わりを避けるという行動の傾向を指している。この原因が「尊大・自尊心」だ。
「尊大」だからつまらないやつとはつきあえない、と傲慢な態度をとる。だがそう見えて実は密かに自分の才能の欠如を恐れてもいて、だからそれがばれるような人との交わりを避ける。つまり「尊大」だから「臆病」になっているのだ。
だがこの逆を言うのが難しい。「臆病」だから「尊大」? なんのことだ?
間をつなぐ論理を表す言葉をみつなければならない(ドミニク・チェンが言うように。内田樹が言うように)。
「臆病・羞恥心」=「人と交わらない」は「尊大・自尊心」にどう影響するか?
「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理だ。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
一方で、自分には才能があるという自尊心は、他人の評価を受けない限りは温存される。それでも科挙という評価基準における成功は得たが、その後は詩を発表しなかったから、他人からの賞賛も得なかった代わりに、決定的な挫折もない。
つまり人と交わらないことは自尊心を満足させず、同時に自尊心を不健全に温存してしまう。
こうした「羞恥心」と「自尊心」の相互依存・因果関係が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という捻れた形容・被形容によって巧みに表されている。
さて、ここまで「再帰性」を説明して、では虎になるとは何を意味するかと言えば「孤独」になるということだと言う班が多かった。虎は「孤立・孤独」の象徴なのだ。
それは一面を捉えている。だがそれは虎は「失った栄光」の象徴だというのと同じく、一面を捉えてはいるが、「山月記」全体をバランス良く説明しているようには感じない。ひきこもりは虎になるのか?(なっていると言うのがふさわしいようなひきこもりもいるかもしれないが)。
虎の属性であるところの「独り」ともう一方、「強さ」をどのように再帰性に結びつけるか?
0 件のコメント:
コメントを投稿