もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
反対の方向の言葉が、だがとても納得されるものとして組み合わされるこの精妙な性格造型が機能するメカニズムを説明するために「ジレンマ」か「再帰性」という言葉を使おう。
「ジレンマ」と言うとみんな公共の授業で聞いた「囚人のジレンマ」を思い浮かべる。あるいは「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」という喩え話を聞いたことがある人もいるだろう。
辞書的には「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。」だそうだ。「板挟み」「二竦み」などとも表現できる。
「再帰的」は初めて見る言葉ではない。どこで?
「〈私〉時代のデモクラシー」で、現代を「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶことを紹介していた。この点についてはそれなりに考察もした。
「再帰的」とは何か?
辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
これは「循環」という言葉の印象によく似ている。好循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましい傾向が強まっていくことだし、悪循環ならばその逆だ。もちろん李徵の場合は悪循環の方だ。
「自己言及的な繰り返し」がなぜ「循環」を生じさせるのか?
説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそういうことだ。また、それ自身の結果が原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
「ジレンマ」も「再帰性」も、二つの要素が、規制し合うか増幅し合うかという違いはあれ、関係し合っている構造を作っている。
この二つの要素が「臆病」「羞恥心」と「尊大」「自尊心」の二つの方向性であることは見当がつく。
これらがジレンマを生じつつ、再帰性をもった循環に閉じ込められている。
このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。
この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。
それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
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