授業で中島敦の「山月記」を読む。
いったい何をすべきか。
小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。
一方で小説は芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。
娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術は転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みだ。
だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場だ。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽や芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか?
一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。
娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みだ。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが果たして可能か。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか?
一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか。
国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録だ。それを目的にしてはならない。
道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのだ。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない([羅生門]がそうであったように)。
まずは「読解」だ。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。
ところで「山月記」を読むのは、ある意味では、それ自体が目的でもある。
「山月記」は、「文スト」でもおなじみ、日本人にとっては広く人口に膾炙した作品だ。
というのはこれもまた「羅生門」と同じく、教科書の定番だからであり、高校を卒業した人たちが高い確率で読んでいる。みんなもこれで多くの日本人の仲間入りをするわけだ。
今回もまた、家庭で親御さんと、兄姉と、これから授業で「山月記」を読むのだと伝えて話題にして欲しい。
「山月記」は日本人にとって、みんなにとってどのような小説でありうるか。
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