2023年6月21日水曜日

山月記 7 内なる猛獣

 「瓦に伍することもできない」=「詩友と交わらない」と解釈したくなるが、そうだと言って済ますことはできない。

 それは、「詩友」は切磋琢磨するような存在であって「瓦」などと下に見るべき存在ではないから、というような理由ではなく、至極論理的な文脈の解釈による。

 まず「碌々として瓦に伍することもできなかった」が「俗物の間に伍することも潔しとしなかった」の言い換えなのだろうと読むのは自然だ。「伍する」の繰り返しを手がかりに「瓦」が「俗物」の比喩なのだろうと考えることは容易にできる。

 とするとそれは「詩友」とイコールでは結べない。引用しよう。

進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、俺は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。

 「かといって」は、その前後が選択的・排他的な関係にあることを示している。したがって「詩友と交わる」と「俗物の間に伍する」は異なった事態を表していることになる。そして「俗物の間に伍する」が「瓦に伍する」だとすると「瓦に伍する」は「詩友と交わる」ではないということになる(三段論法によって)。「詩友と交わることをしなかった。かといって、また、詩友と交わることもしなかった」と代入してみると意味不明な日本語になってしまうことからもそれがわかる。

 では「瓦に伍する」は何のことを言っているか?


 上の引用部分の「かといって」の前が詩家を目指している期間、後が詩家を諦めてからの期間だと考えると「瓦に伍する」は詩家の夢を捨てて一般市民として生きることを指しているのだろうか? 「瓦」とは「一般市民」?

 それは間違っていない。だがそれだけで終わるべきではない。

 詩家を諦めた李徵はどうしたか?

 小説全体に視野が届いていれば、この比喩は冒頭段落の李徵のプロフィールの中の「昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬこと」を指していると考えるべきであることに気付くはずだ。「鈍物~連中」は「瓦」の比喩にふさわしい。


 「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。

 他人を「瓦」と呼ぶ「尊大」(あるいは傲慢)な李徵にとって、一般市民や鈍物たる同僚ばかりでなく、俗悪な上司も「瓦」であるにちがいない。だから時期の対応にしばられずに、李徵の精神構造から考えれば「瓦に伍する」が「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈する」ことを指していると考えてもいいし、それだけでなく上記の文脈の論理からは否定した「詩友と交わる」こともまた李徵にとっては「瓦に伍する」ことなのだろう。

 だから「瓦に伍するもことできない」が「詩友と交わらない」のことを指していると考えてしまったのは故ないことではない。文脈上は否定されるが、決して間違った印象ではない。


 他人を「瓦」と見る「尊大な」「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「人との交わりを避け」る「羞恥心」を生ずる。「瓦に伍する」ことをしないのは「尊大」ゆえでもあるが、「臆病」だからでもある。

 つまり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の形容・被形容は、語意からはその方向性が相反しているにもかかわらず、それらが分かちがたく結びついた同じ性質の表裏であることを表している。

 一見方向性の反対の方向性をもった言葉が、捻れて形容・被形容で接続するのは、その関係性を巧みに表わしている。


 「山月記」では常に問題となるフレーズをとりあえず整理してみれたが、それが虎なのだ、だから虎になったのだ、と言うのは、論理の飛躍がある。臆病な人は虎になるのか、尊大な人は虎になるのかといえば、ただちに当然とは言えまい。

 問題はそれがなぜ「虎になる」という極端な事態を招いたのかという論理だ。


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