2023年6月27日火曜日

山月記 8 「虎」の象徴性

 さて「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに含まれる二つの側面のうちの一方「なぜ虎なのか?」について考えてみよう。

 李徵がなったものはなぜ虎なのか、を考えることは、何を考えることなのか?


 まずは「虎」の属性を明らかにするということだ。そしてそれは虎以外のもの、牛と、犬と、猫と、虫と、ライオンと「虎」を比較することで、虎の特性を明らかにすることにほかならない。

 これをさらに抽象化して言おう。これはどのような問いなのか?


 それは単に生物としての虎がどのような動物かということではない。

 「虎になる」とは、ホモサピエンスという動物が虎という動物に変化する、SF的な現象を指しているわけではない。

 とすれば「虎とは何か?」という問いの趣旨は何なのか?


 この問題は初めてではない。こういうときに定番の問いの立て方があるのだ。それを想起したい。

 文芸作品を解釈する時は「それは何の象徴なのか?」という形で問いを立てる必要があることがある。「羅生門」の下人のにきび、「夢十夜」の運慶、「I was born」の蜉蝣はそれぞれ、単にそれそのものではない。それらは「象徴」として作品中に存在する(ちなみに「第一夜」の「真珠貝・星の破片」も明らかに象徴めいているが、あれらが何の象徴かを考えるのは生産的ではないと授業者は考えている。あれらは単なるギミックだと思う)。

 「象徴」とは?

 具体で何らかの抽象概念を表わすこと、と即答できなければならない。

 とすれば今求められているのは、その「抽象概念」を指す語の想起と選択だ。

 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、李徵が「虎になる」ことの必然性を説明する上で使えるかどうかを検討する。

 とはいえ、さしあたり名詞を挙げてみよう。


 各クラス、それぞれの班で多様な候補が出る。バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の語が提出される。

 それらを似たような意味合いでグループ化する。おおよそ二つの系統に分類できる。

 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージ。これは虎の、群れを作らないで単独行動する生態に対応している。

 もう一つは「強さ」のイメージ。「虎の威を借る狐」では虎は百獣の王だ(「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが、アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ)。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。

 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージ。

 「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。

 ということは、この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。


 ところで、「強さ」を表す語をさらに二つに分類して示すと、興味深い意見の相違が見られた。

 一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。

 もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。

 どちら寄りに考えると「虎になる」ことの説明になりそうかという問いに、みんなの意見は分かれた。こういうのは面白い論点だ。


 また、どちらに属するとも単純には言いがたい語彙として「怒り」「恐怖」なども提案された。「恐怖」は「畏怖」に近いが、また微妙に方向の異なる語でもある。李徵自身の「恐怖」なのか、他から李徵に向けられる「恐怖」なのかも問題だ(提案者はどちらともだ、と言っていた)。

 「虎の威を借る」の故事から「愚かさ」という語も提案された。「虎になる」とは「愚かな存在になる」ということだ…。

 いずれにせよ、どんな言葉が、李徵が「虎になった」わけを説明する際に有効なのか、と考えてみる。


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