李徵はなぜ虎になったのか?
「山月記」の読解とは、ひとまずはこの問いの答えを探す考察だ。
さて、小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。
「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所だろう。
なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。(38頁)
俺はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。(42頁)
飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。(44頁)
シンプルに
- わからない
- 性情が表に出た
- 妻子よりも詩業を気にかけているから
としておく。
さしあたってこの3点を検討する。
これ以外には、李徵が虎になる場面で、闇の中から呼ぶ声の存在が書かれているが、これは1か2の表れの一つと考えていいのではないかと判断しておく。また冒頭の段落には「自尊心が傷ついたから」と見做すことの可能な記述があるが、これは2に含めて考えよう。
どう考えるべきか?
まずはこの3点の関係を考え、重み付けをしよう。
とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかだ。無視していいのか? それともしかるべき重みで受け取ればいいのか?
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