2023年6月28日水曜日

山月記 10 結論に向けての再検討

 李徵が虎になった理由、その必然性を「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に求めるべきであることに異論はない。

 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強される。

 「山月記」は、芥川の「羅生門」が『今昔物語』の1エピソードを翻案したものであるように、実は元になっている物語がある。唐代の中国で書かれた伝奇小説で「人虎伝」といい、これが、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままなのだ。

 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。

 「人虎伝」の李徴は未亡人との逢瀬を彼女の家族に反対されて逆ギレし、家に火をつけて一家全員を焼き殺したのだった。彼は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのだ。

 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。

 したがって「山月記」という小説を読解することは、「人虎伝」という伝奇小説を享受することとは全然別のことなのだ。中島敦は2の告白によって李徵が虎になったことの必然性を描こうとしているはずだと考えるのが真っ当で自然な解釈だ。


 確かに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が李徵を虎にしたのだ。

 だがそれは「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。

 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題だ。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業だ。


 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。


 まず、虎の象徴性についての再検討だ。

 虎が示す「強さ」には、さらに二つの傾向が指摘された。一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。どちらをとる? と聞くと両方に手が挙がった。

 かつて或る生徒が答えた解釈を紹介しよう。

 冒頭に次の一節がある。

李徴は…若くして名を虎榜に連ね…

 ここを引用して彼は言った。「李徵は虎になりたかったのだ。」

 どういうことか?


 「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。正式には「竜虎榜」といい、「竜虎」は優れた者、つまり科挙(国家公務員Ⅰ種試験)の合格者=官僚を指す比喩だ。

 李徵はかつて虎だった。それがエリートコースを外れ、詩家としても成功せず、一地方官吏におちぶれている。

 つまり李徴にとって虎とは、かつての栄光に満ちた自分を象徴するものであり、虎になるとは失った栄光をとりもどすことなのだ。

 虎になる場面でも「何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった」と、何やら肯定的な表現が使われている。

 だがそれを求めて虎になることは、人としての生を完全に捨て去ることになってしまう。これが「山月記」の悲劇なのだ。


 これはある意味では魅力的な解釈だ。意表をつかれて腑に落ちる感覚もある。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きが充分に組み込まれているとにわかに納得することは難しい。李徵が語っている理由の裏に、上のような願望があることを認めても良いが、印象としてはいささかシンプルすぎると感ずる。

 まだ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という精妙な設定のメカニズムはまだ明らかではない。


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