「山月記」はどういう話か?
「どういう話か」という把握のことを「主題(テーマ)は何か」と言う。昨年度の「羅生門」や「夢十夜」でも言っていた。
「主題」とは何か小難しい話ではない。「どういう話か」という把握のことだ。「山月記」はどういう話か?
といって単に設定や粗筋のことを指しているわけではない。それを言うなら「虎になった男の話」であり、「虎になった男がかつての友人と山中で出会ってその経緯を話す話」だ。
「主題」というのは、それより一段抽象化した言葉で対象を把握しようというのだ。
最終的に考えるのは「山月記」の主題だとして、その前に「わかる」べきことはわかっておかなければならない。
「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?
「わからない」とすれば何が「わからない」のか? 「わかった」とすれば何が「わかった」のか?
まず、問いを立てる。
「山月記」がひとまず「わかった」と思えるための試金石は明らかだ。ブレたりはすまい。読者は皆そう感じるはずだ。
すなわち次の問いに答えられることである。
李徴はなぜ虎になったのか?
これに、今直ちに答えられるだろうか?
この問いはちょうど「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたのか?」に対応している。わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。
おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。
ここに明確な形を与えることを目標とする。
適切に考えるために問い自体の成り立ちを的確に把握しておく。
「羅生門」の「下人はなぜ~したか?」は、「何のためにしたか?」ではなく「なぜできなかったことができるようになったのか?」だった。
「なぜ」という疑問詞は「理由・原因」とも言えるが「目的」や「経緯」の場合もある。「どうして」という疑問詞も「なぜ」の場合も「どのように」の場合もある。
「羅生門」では、引剥ぎの目的だの経緯だのを考えたのではなく「行為の必然性」を考えたのだった。「なぜ」と問えば「生きるため」と答えることも可能だが、そこが問題ではない。最初からわかっている「生きるためには盗人になるしかない」が、なぜか最初はできずにいて、最後にできるようになったのはなぜか、を問うているのだ。
同様に、「なぜなったか」は「どのようにしてなったのか」ではない。「虎になった」ことの経緯ではない。理由あるいは原因と言っても良いが、それよりも、筆者がこの小説で李徵を虎にしたことに、どのような必然性を与えているかということだ。
ところで「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いには二つの問いが含まれている。
何か?
「なぜ」という疑問詞が「虎に」に係っていると見做すか、「なった」に係っていると見做すかで、以下の二つの問いに分解できる。
なぜ李徴は人間でないものになったのか?
なぜ李徴がなったものは虎なのか?
最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件だ。
これらを説明するために、それぞれを対比を応用して、考えるべき問題の輪郭を明らかにする。
「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(牛・馬・犬・蠅・蛞蝓・マダニ…いや生物でなくとも、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味を考える。
したがって「なぜ虎なのか」は「なぜ虎以外の物ではないのか」と言い換えられる。「虎」を「虎以外の物」と比較することで、「虎」であることの意味が明確になる。「虎になった」ことの意味を考える上で「犬になることとどのような違いがあるのか?」と考えてみる。
では「なぜなったのか」は、どのように言い換えられるか? 何と対比すれば「なった」ことの意味を明確にできるか?
「なった」の対比は言うまでもなく「ならなかった」だ。
そこまではみんなわかるのだが、だからといって「なぜならなかったのか?」という問いは意味不明だ。李徵は実際に虎に「なった」のだから。
「なった」ことの必然性は「ならない」ことの必然性の裏返しだ。といって「なぜ他の人は虎にならないのか」は不要な仮定だ。他の人が虎になる必然性はそもそもない。
「なぜ人間に戻れないのか」は、虎になることが可逆的なのか不可逆的なのかもわからないのでやはり不要な仮定だ。
ともかく李徵は虎に「なった」のだ。その必然性は、「ならなかった」=「人間のままでいる」必然性の裏返しとして明確になる。
したがって、この場合の対比は、「なぜなったか?」を「どうすればならずにいられたか?」と言い換えることで得られる(疑問詞を置き直す必要があるところで行き詰まった者も多かった)。
これら二つの要素を含むよう、「虎になった」ことの意味を明らかにする。
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