2023年6月21日水曜日

山月記 6 珠と瓦

 さて「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の読解には、もうちょっと地ならしが必要だ。

 「臆病な…」の次の一文は、いくぶんモヤモヤするはずだ。

の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。

 ここはそんなにすっきりとは読めないだろうと想定していると、問いとしてここに言及する班がちっとも現れない。なぜだ? わかりきっているのか? そんなはずはない。ここに使われている比喩表現はそんなに自明のことか?

 地道な考察を展開するために、まず確認。

 「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?


 「瓦」は「値打ちの低いもののたとえ」という語注がある。そして「伍する」の繰り返しから推測すると、前の文の「俗物」の言い換えになっていると考えられる。「俗物」=「値打ちの低いもの」だ。

 「珠」は、訊くと「才能」という答えが返ってくることが多いが、これは若干微妙な誤解を含んでいるかもしれない。

 「己珠」と括って「自分の才能」と直訳してはいけない。「の」は所有格ではなく主格で、「己の」は「珠」に係っているのではなく、「あらざる」「なるべき」に係っている。つまり「自分」「珠にあらざる」「珠なるべき」なのだ。

 ということで「珠」は「優れた者」の比喩だ。

 「伍する」は?

 「落伍者」という言葉は知っているだろうか(みんななんとなく微妙な反応だった)。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。

 こういう地道な確認を互いにしあうことを心がけよう。

 言葉の意味が確認できたところで、これはこの前後のどの記述に対応しているか? あるいは小説中のどんな状況を表現しているか?


 「己の珠にあらざることを惧れる」は、次ページの「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」に対応している。

 がゆえに、「あえて刻苦して磨こうとしない」。これが「刻苦をいとう怠惰」と言い換えられている。怖くて磨かないことと怠惰で磨かないのとでは違うと突っ込むこともできるが、これは李徵の自嘲癖の表れとみなそう。

 「己の珠なるべきを半ば信ずる」は「自分が才能ある者であることを半ば信じる」だ。これは「自尊心」の表れだと言って良いが、冒頭近くにもこれに対応する記述がなかったか?

 「自ら恃むところすこぶる厚く」だ。最初の時間のやりとりを思い出して、すぐに想起できただろうか。

 ではそれゆえに「碌々として瓦に伍することもでき」ないとは?


 さしあたって数行前の「努めて人との交わりを避けた。」に対応している。

 これをもっと具体的に表現しているのが、同じ段落の「求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりする」であるように感ずる。

 こう考えることは適切か?


 さしあたって、そう解釈するのは間違っている、と言ってもいい。

 なぜか?


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