李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。
そして2は、それなりに「わかる」。そういう話か、という、ある感触は得られる。
だがそれがどういうことなのかをすっきりと説明できるわけではない。説明しようとしても、現状では本文をそのまま引用することになりそうだ。
さらにそれを抽象化して「主題」として語ることは難しい。
さて2の「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か?
ここが、問題の「李徵はなぜ虎になったのか?」の答えとして充分に説得的であるかどうかというのが、「山月記」という小説の読解の中心課題であり、現段階でここに踏み込むことはとどめておこう。最終的な考察をする前に、ここではまず当面「わかる」べきことをわかっておく。
当該の段落をすっきりと「わかる」ためにどんな考察が必要か、というのが既に問題ではある。再三言っている通り、「問いを立てる」ことはきわめて重要だ。適切に考えるためには考えるべきことの焦点が定まっている必要がある。
だが今回も変わらずこの課題にみんな難渋した。「わからないところがわからない」と言いたい気持ちはわかる。がそれは考えることをサボっている、放棄している、諦めているのだ。
もちろん問題の焦点が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であることはみんな感じ取る。それが「猛獣」なのだし、それが外形を「虎」にしたのだと李徵は語っている。
だがなぜそれを「どういうこと?」とか「どうして?」と言っただけでは、考えるべき焦点はまるで明確にならない。疑問が同語反復しているだけだ。
そもそもこのフレーズには、読者が、あるひっかかりを感ずるべき違和感がある。
この違和感はどこから生じているか?
それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。
「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。
これが、ちくはぐに組み合わされている。
形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような重複による冗長さが違和感となるが)。
ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?
そしてなぜそうした形容が可能なのか?
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とはどういうことか、という「大きな問い」を、例えば上記のように分析して、より「小さな問い」に置き直す。
さらに、このフレーズを考えるために考えるべきことは何か?
語れる者はすぐに「解釈」を語ってしまうが、それはどんな疑問を解いているのか?
まず、そもそも「臆病」「羞恥心」「尊大」「自尊心」がそれぞれ何のことを指しているかを明確にすることが必要なはずだ。語っている者はそれを語っているはずだし、そうでなければ、何も語れずに黙ってしまうか。
ここが、この部分を考える上で立てなければならない問題の焦点であることは、分析的に考えないと意識できない。
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