二つの対立した見解を述べた文章を比較し、それに対して自分の見解を小論文にまとめる。
山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」には、一見したところここまでのソシュール的言語観と真っ向から対立しているように見える記述がある。
まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。
まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。
前回の長田弘と内田樹の記述の齟齬(と見えるもの)は、実は主旨に齟齬があるわけではないという解釈が可能だった。
今回は?
これと対立させるのは鈴木孝夫の「ものとことば」だ。
「ものとことば」は以前の1年生が使っていた「国語総合」の教科書に収録されていた。これは今年の筑摩書房でも去年の東京書籍でもなく、第一学習社の教科書であり、今でも同社の「現代の国語」には、この文章が収録されている。今井むつみ・内田樹と同じく、1年生向けの教科書に載る「言語論」というわけだ。
一読してわかるとおり、これはソシュール的言語観の延長上にある。ソシュールの名前こそ使っていないが。
とすると、山鳥と鈴木の論には明確な対立点があるということだ。
対立点は考察の糸口だ。「思考の誕生」にせよ「未来をつくる言葉」にせよ、互いの間にある相違、亀裂こそ、思考を生み、言葉を生み出すきっかけになると言っていた。
ディベートは、ともすれば単に勝ち負けを競う討論ゲームに堕してしまうきらいもあるが、本当は多角的に物事を考える方法として有益なはずだ。
ここでも、あえて対立した論をとりあげることで、この問題について考える糸口としたい。
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