どこのクラスでも言語の誕生/習得の過程を思考実験してみることが、それぞれの論拠/反証になるのではないかという論点が挙げられた。
ざっくり言えば、誕生を論拠にするのが山鳥派だ。人類が最初に言語を生み出した時のことを考えると、まだ言葉はないわけだから、先に表象ができたとしか考えられない。
一方、習得の過程を論拠にするのが鈴木派だ。赤ん坊が生まれたときには既に言葉は周囲に飛び交っている。事実上言葉は先にあったのだ。
だが個体発生は系統発生を辿ると生物学で言われるように、言葉の習得過程は言葉の誕生の過程とを分けて考える必要はないという意見もあった。
あるいは現代の大人を例にしてこの問題は考えられないのか?
さしあたり、鈴木派から山鳥への反論として挙がった意見を二つ紹介する。
言葉は人類にとって、最初からあった。言葉がなかった時点というのは存在しない。言葉を持たない亜人類はすべて滅びて、ホモ・サピエンスが生まれたときには最初から言葉を持っていたのだ…。F組A君。
言葉は最初、動物の鳴き声や周囲の自然音を口真似するところから生まれた。その時には表象は存在しないが、音声に対する周囲の反応から徐々にコミュニケーションが発達し、その過程で人類の脳内に表象が生まれた。したがって、先に言葉(の元になる発声)が先にあったのだ…。H組K君。
どちらも巧みな反駁だ。
どうだろう、山鳥派からの反論は?
もう一つ、議論を展開するための材料として丸山圭三郎「ロゴスと言葉」に登壇してもらう。
日本を代表する記号学者である丸山は、やはりソシュールの基本的な考え方をなぞっているように見える。それを確認したうえで、ここでは丸山の紹介する電車内の少女のエピソードを考察の材料としよう。山鳥の紹介する次男のエピソードと比較するのだ。
どちらも「言語の習得」の際に起こることを例にしている。ここからどのようなことが言えるか?
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