すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。
仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則あるいは相対性理論によって、観察される事象を説明する。
天動説は間違っているわけではない。現在地動説が「正しい」ということになっているのは、地動説の方が天体の運行の観測データをすっきりと整合的に説明できるというだけだ。
自然科学はもちろん、社会学や経済学や心理学などの人文科学も同様だ。うまく説明できれば理論として認められる。
山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみる。鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。どちらかが不自然だということはあるか、どちらに説得力があるか?
山鳥は次男の言葉の習得過程を例に次のように言う。
まず、複数の事象間の関係を同時に一つのシーンとして表象する心の働きが生成し、そのシーンを言語記号で表現しようとしてセンテンスが出現する。つまり、心に単語一つではラベルできないような複雑な意味(思想)が生成され、その思想を複数の単語を使って表現しようとして、センテンスが生み出されたのである。
単語レベル(もの)だけでなく、センテンスレベル(こと)においても、表象が先にできる、と山鳥は言う。
これは本当か?
授業者の印象を言えば、これはまったく結論ありきで説明を組み立てているに過ぎない、と思う。
子供の心にそのような複雑な表象が先にできたとなぜわかるのか? 表れはそのようなセンテンスを彼が口にしたという事実だけだ。だがそこにいたるまでに、先に表象ができたと考えるべき根拠はまったくない。先に表象ができていると山鳥が想像しているだけだ。
子供は、あるシチュエーションにおいて大人が使うセンテンスをまず聞く。それを自らも口にした時の大人の反応が、そのセンテンスの働きを学習させていく。つまりそれがどのような「こと」を表しているかは、後から徐々にわかってくる。センテンスとそれが表す「こと」=表象が一致するにつれ、彼はそれを的確に使うようになる。
こう言ってしまえば、これは全く「言葉が先」のように聞こえる。
あるいは丸山の「デンシャ」少女のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。
山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を脳内に作って、それをそれぞれ「人間」「人形」と名付けたということになる。
だがどうしてそんな都合良く、そうした表象に対応する言葉が少女に与えられると考えられるのか?
「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象が作られたのなら、それは「ツクエ」でも「ペン」でもいいはずだ。「ニンギョウ」であるべき必然性はない。
だから「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象は、どうみても「人形」を「人間」に対置した時に初めて生まれたもののはずだ。先に「人形」「人間」という言葉とそれに伴う表象が先にあったはずだ。
さらに山鳥説ならば「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ち、「デンシャ」がそのどちらに入るか判断に迷うと考えたということになる。
これはあまりに高度な分析的・哲学的思考だ。そんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無理だ。山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。
「人形」「人間」「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されるはずだ。母親が人形を刺して「ニンギョウ」と言う。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通したソレと結びついて、次第に視覚イメージやら音声イメージやらになる。
さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化されるのだ。その表象は、先にあった「人間」「人形」という言葉によって生じたのだ。それ以外に考えようがない。とすれば「言葉が先」にあったのだ。
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