さてでは本命の「思考の誕生」以下の文章だが、これは難易度が高い。抽象度を上げないと、つまり構造を抽出しないと重なってこない。
一方で、印象の類似性を糸口にするという手もある。論理は後から組み立てる。言語論をスキーマとゲシュタルトの議論に載せるときに、ダルメシアン犬と星座の印象の類似がまず指摘できたように。
ここでも、D組の授業での発言を糸口にして、それ以降のクラスでも同じ展開を使った。
まずD組H君が、「物と身体」の「夢」が、ここまで何度も言及された「フィルターバブル」に似ているという印象を語った。
なるほど。とするとそれが登場する「未来をつくる言葉」と対応させられるのだろうか。
「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」というフレーズについて考察した。「身体」? これも重なっているのだろうか。
フィルターバブルは「他者の言葉」で語られるプラトンの「洞窟」の比喩にも似ているという認識も共有されている。
さて、これと似た印象を「思考の誕生」から指摘すると?
どこのクラスでも「自分ひとりで考える」が挙がるから、やはりこうした印象は共有可能なのだろう。
夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える
この印象の共通性を論理づけよう。
正面からこれらの比喩・概念・フレーズが共通していることを説明によって示すこともできる。
だが、まずは文の共通性で示す。
それぞれの文章のメッセージをシンプルな文にする。
- 「他者の言葉」は「洞窟を出よう」
- 「未来をつくる言葉」は「フィルターバブルを出よう」
- 「思考の誕生」は「ひとりの考えから出よう」
とすると「物と身体」は「夢から覚めよう」だ。
筆者はデカルトを対比的に援用して、デカルトの方法では夢から覚めることはできない、と言っているのだ。それに対し、生活者の素朴な実感は、既に夢から覚めていることを示す。
先ほどの対応は、同じ文型で示せる。つまり同じ論理があるのだ。
何と何を対応させるかによっては、別の何かはズレてしまうかもしれない。例えば上で言及したように、「物と身体」と「未来をつくる言葉」では「身体」は共通しているのに、「夢」と「フィルターバブル」を対応させると、それぞれの「身体」は一致しない。
なぜか?
「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」なのだから、つまり身体によってフィルターバブルが作られている。
だが「物と身体」では身体は夢から覚める手がかりとなる。
方向が反対だ。
だがそもそも身体はそのような両義性を持ったものだと言ってもいい。
そのような存在がこの議論の中にもう一つある。
「言葉」だ。
「他者の言葉」では言葉が洞窟を作っている。
だが「未来をつくる言葉」ではその「言葉」がフィルターバブルを乗り越えて他者とつながり合う手段として捉えられている。
そういえば「身体という原初のフィルターバブル」の考察では「身体」が何と対比されているかを考えた。「文化」だ。フィルターバブルは身体が作るばかりではない。我々は生まれつき「身体というフィルターバブル」の中にいるのだが、もちろんその後、成長していく中でさまざまな「文化」的フィルターバブルの中にとりこまれていく。
例えば宗教、生活習慣、価値観、あるいは「大きな物語」。
そして「文化」の最大の例として「言葉」を確認したではないか。
つまり身体も言葉もフィルターバブルを作る。
だが同時に、そこから抜け出すための手段となるのが言葉であり身体なのだ。
さて「夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える」という対応は有望そうな手応えがある。
もう一つ、それと対にして論理を形成する要素を対応させよう。
例えば「自分ひとりで考える」ことから抜け出すために必要なのは「他人と考える」ことだ。
「他人(性)」は「思考の誕生」の中できわめて重要な要素だった。
「他者の言葉」にはそのまま「他者」が登場するし、「場所と経験」にも出てきた。
「物語るという欲望」では、これに対応するものとして「断絶・亀裂」を確認した。ただしこの文章はメッセージが薄いうえに「夢/フィルターバブル…」にあたるものがない。
「未来をつくる言葉」でこれにあたるのが「わかりあえなさ」であることは夏休み前に確認した。
さてでは「物と身体」では?
重要なキーワードは文中に複数回使われるものだ。「物と身体」では「抵抗」と「障害」がこれにあたる。
夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える
の順に並べるなら
抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)
それぞれの要素の結びつき方は完全に同じではない。
「わかりあえなさ」は「フィルターバブル」そのものであるように思えるのに、「自分ひとりで考える」と「他人」は対極にある。論理を重ねるために文の形を揃えるのは簡単ではない。
「わかりあえなさ」が「未来をつくる言葉」の文中に登場するのは1回。次の一節だ。
いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。
「新しい意味が生じる余白」という言い方は「物語るという欲望」の「断絶・亀裂・空白」から物語が生まれる、に通ずることは明らかだから、これを「思考の誕生」の「他人(性)」と重ねることもまた可能だ。
「他者の言葉」の、言葉が作る洞窟も、つまりは自分の言葉が洞窟を作っているのだから、他人の言葉を聴くことが、そこから出る手がかりになる。
「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。
意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「物語」が生まれる。
「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。
物の実在についても同じことが言える。
「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。
身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。
表現した命題を確かめるためには、逆にするか対偶をとるのがいい。
「他人(性)・他者/断絶/わかりあえなさ/抵抗・障害」がないところには「思考」も「物語」も「言葉」も「物」も生まれない。
「わかりあえなさ」がないということはフィルターバブルの中にいるということだ。そこから出ようとする者にとってのみ「わかりあえなさ」はある。「抵抗」がない状態は、何にも触れていない、何にも関係していないということだ。それは夢の中にいるということだ。「抵抗」が「物の実在」を証す。
ちなみに「広告の形而上学」をここにつなげるとどう言えるか?
キーワードである「差異」が想起されていればOK。