2026年9月15日火曜日

思考の誕生 16 物と身体2

 さてでは本命の「思考の誕生」以下の文章だが、これは難易度が高い。抽象度を上げないと、つまり構造を抽出しないと重なってこない。

 一方で、印象の類似性を糸口にするという手もある。論理は後から組み立てる。言語論をスキーマとゲシュタルトの議論に載せるときに、ダルメシアン犬と星座の印象の類似がまず指摘できたように。

 ここでも、D組の授業での発言を糸口にして、それ以降のクラスでも同じ展開を使った。

 まずD組H君が、「物と身体」の「夢」が、ここまで何度も言及された「フィルターバブル」に似ているという印象を語った。

 なるほど。とするとそれが登場する「未来をつくる言葉」と対応させられるのだろうか。

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」というフレーズについて考察した。「身体」? これも重なっているのだろうか。

 フィルターバブルは「他者の言葉」で語られるプラトンの「洞窟」の比喩にも似ているという認識も共有されている。

 さて、これと似た印象を「思考の誕生」から指摘すると?


 どこのクラスでも「自分ひとりで考える」が挙がるから、やはりこうした印象は共有可能なのだろう。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 この印象の共通性を論理づけよう。

 正面からこれらの比喩・概念・フレーズが共通していることを説明によって示すこともできる。

 だが、まずは文の共通性で示す。

 それぞれの文章のメッセージをシンプルな文にする。

  • 「他者の言葉」は「洞窟を出よう」
  • 「未来をつくる言葉」は「フィルターバブルを出よう」
  • 「思考の誕生」は「ひとりの考えから出よう」

 とすると「物と身体」は「夢から覚めよう」だ。

 筆者はデカルトを対比的に援用して、デカルトの方法では夢から覚めることはできない、と言っているのだ。それに対し、生活者の素朴な実感は、既に夢から覚めていることを示す。

 先ほどの対応は、同じ文型で示せる。つまり同じ論理があるのだ。


 何と何を対応させるかによっては、別の何かはズレてしまうかもしれない。例えば上で言及したように、「物と身体」と「未来をつくる言葉」では「身体」は共通しているのに、「夢」と「フィルターバブル」を対応させると、それぞれの「身体」は一致しない。

 なぜか?

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」なのだから、つまり身体によってフィルターバブルが作られている。

 だが「物と身体」では身体は夢から覚める手がかりとなる。

 方向が反対だ。

 だがそもそも身体はそのような両義性を持ったものだと言ってもいい。

 そのような存在がこの議論の中にもう一つある。

 「言葉」だ。

 「他者の言葉」では言葉が洞窟を作っている。

 だが「未来をつくる言葉」ではその「言葉」がフィルターバブルを乗り越えて他者とつながり合う手段として捉えられている。

 そういえば「身体という原初のフィルターバブル」の考察では「身体」が何と対比されているかを考えた。「文化」だ。フィルターバブルは身体が作るばかりではない。我々は生まれつき「身体というフィルターバブル」の中にいるのだが、もちろんその後、成長していく中でさまざまな「文化」的フィルターバブルの中にとりこまれていく。

 例えば宗教、生活習慣、価値観、あるいは「大きな物語」。

 そして「文化」の最大の例として「言葉」を確認したではないか。

 つまり身体も言葉もフィルターバブルを作る。

 だが同時に、そこから抜け出すための手段となるのが言葉であり身体なのだ。


 さて「夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える」という対応は有望そうな手応えがある。

 もう一つ、それと対にして論理を形成する要素を対応させよう。

 例えば「自分ひとりで考える」ことから抜け出すために必要なのは「他人と考える」ことだ。

 「他人(性)」は「思考の誕生」の中できわめて重要な要素だった。

 「他者の言葉」にはそのまま「他者」が登場するし、「場所と経験」にも出てきた。

 「物語るという欲望」では、これに対応するものとして「断絶・亀裂」を確認した。ただしこの文章はメッセージが薄いうえに「夢/フィルターバブル…」にあたるものがない。

 「未来をつくる言葉」でこれにあたるのが「わかりあえなさ」であることは夏休み前に確認した。

 さてでは「物と身体」では?


 重要なキーワードは文中に複数回使われるものだ。「物と身体」では「抵抗」と「障害」がこれにあたる。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 の順に並べるなら

抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)

 それぞれの要素の結びつき方は完全に同じではない。

 「わかりあえなさ」は「フィルターバブル」そのものであるように思えるのに、「自分ひとりで考える」と「他人」は対極にある。論理を重ねるために文の形を揃えるのは簡単ではない。

 「わかりあえなさ」が「未来をつくる言葉」の文中に登場するのは1回。次の一節だ。

いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 「新しい意味が生じる余白」という言い方は「物語るという欲望」の「断絶・亀裂・空白」から物語が生まれる、に通ずることは明らかだから、これを「思考の誕生」の「他人(性)」と重ねることもまた可能だ。

 「他者の言葉」の、言葉が作る洞窟も、つまりは自分の言葉が洞窟を作っているのだから、他人の言葉を聴くことが、そこから出る手がかりになる。


「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。

意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「物語」が生まれる。

「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。

 物の実在についても同じことが言える。

「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。

 身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。

 表現した命題を確かめるためには、逆にするか対偶をとるのがいい。

 「他人(性)・他者/断絶/わかりあえなさ/抵抗・障害」がないところには「思考」も「物語」も「言葉」も「物」も生まれない。

 「わかりあえなさ」がないということはフィルターバブルの中にいるということだ。そこから出ようとする者にとってのみ「わかりあえなさ」はある。「抵抗」がない状態は、何にも触れていない、何にも関係していないということだ。それは夢の中にいるということだ。「抵抗」が「物の実在」を証す。


 ちなみに「広告の形而上学」をここにつなげるとどう言えるか?

 キーワードである「差異」が想起されていればOK。


思考の誕生 15 物と身体1

 夏休みを挟んで9月の授業はわずか3時間程度。ここで2本の文章を読む。まずは前田英樹「物と身体」を読む。「ちくま評論入門」の兄貴分のアンソロジー「ちくま評論選」に収録されている文章だが、新課程になってからは購入していない。前田英樹の文章は「論理国語」教科書に「絵画の二十世紀」が収録されている。これは機会があれば。

 前田はフランス思想が専門で、ここでは哲学的な認識論を展開して、かつ「哲学」をおちょくってもいるのだが、専門が「思想」というのは、つまりは哲学者ということではないのか(自分では「哲学」をやらず、ただ哲学を勉強してます、ということなのか?)。

 この文章は今までのどの文章のどういう議論と通ずるか?


 一読してまず日高敏隆「生物の作る環境」と、昨年度の松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないか」を連想してほしい。

 それぞれの文章と「物と身体」の論旨の共通点を簡潔な一文にする。そしてそれらの論旨の関連を考える。


 論理的に先に置かれるのは「人工知能は…」との共通論旨。

人は(生物は)身体を通して「もの」を認識する。

くらいにまとめられる。身体は世界認識の為のメディアなのだ。

 この論旨がそれぞれの文章でどう展開されていて、何と何が対応しているか?

 「物と身体」では「人間/ナメクジ」という対比で語られ、「人工知能は」では「人間/人工知能」という対比で語られる。つまりナメクジとAIが対応していて、例として消しゴムと椅子が対応している。

 人間のように消しゴムを使わないナメクジは消しゴムを認識することはできず、人間のように椅子に座らないAIは椅子を認識することはできない(人間のようには)。


 この論旨が「生物が作る環境」との共通論旨に結びつく。

それぞれの生物にとっての「世界」はそれぞれ違っている。

 これがユクスキュルの「環世界」論だ。ユクスキュルはダニ・蠅・犬などの例で、前田はナメクジで、人間とは違う「環世界」を描写してみせる。

 二つの論旨は因果関係をなしている。

 生物は身体によって世界を認識するから、身体が違えば認識する世界も当然違ってくる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違う。ドミニク・チェンが環世界という言葉を使うときは、こうした身体による一人一人の認識の差異だけでなく、文化による認識の違いも問題にしている。


 ここまではすぐに考えつく。

 だがこれを「思考の誕生」「物語るという欲望」「未来をつくる言葉」と重ねようというのだ。

 これは抽象度を上げないと重なってこない。

 どう考えるか。


 その前に授業ではまず、どの文章を連想したかを聞いたのだが、ここで柄谷行人「場所と経験」が出てきたのは想定外だった。

 確かに「物と身体」にも「場所」という言葉が途中に一カ所出てくる。だからといって論旨が重なるのか? と思ったが、意外といける。

 「場所と経験」の論旨を簡単に言うのは難しい。ここまで読んだ文章の中でも印象がまとまりにくいはずだ。

 それでも簡単に言うなら、「経験」は「場所」と結びついている、とでもいおうか。裏返してみる。「場所」と結びつかない「経験」は「経験」にはならない、ということになる。

 柄谷は、このことを言うために場所の捉え方として二つの捉え方が対比する。本当は三つなのだが、さしあたり問題は二つだ。「歩く/地図を見る」だ(この対比を抽出するのがなかなかに難しかった)。

 この「地図を見る」ことによる場所の捉え方が「物と身体」のデカルト的捉え方に対応している。抽象的・観念的な捉え方だ。

 それと対比されているのが「歩いて場所を感じる」捉え方で、これはまさに足=「身体」で場所を捉えるということだ。

 前田が「生活者/デカルト」という対比で世界の捉え方を問題にしているのがちょうど柄谷の「歩く/地図を見る」という対比に重なる。


 もう一つ、C組ではH君から「広告の形而上学」が挙がった。これも想定外。これはどう重なるか?

 ヒントはメディア(媒介)という概念。

 これは「生物が作る環境」「人工知能は」のように、共通する論旨を表現することはできない。ただ、論理の共通性を言うためには、同じ文型でそれぞれの文章の論旨を言えば良い。

 どう言うか?

  • 商品の価値は広告を通して捉えられる。
  • 物の実在は身体を通して捉えられる。

 つまり「広告/身体」がメディアとして並置できるのだ。もちろん裏返してもいい。

  • 広告がなければ商品の価値はわからない。
  • 身体がなければ物の実在はわからない。


 こういう想定外があるのが授業の醍醐味。



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