2026年9月15日火曜日

思考の誕生 15 物と身体1

 夏休みを挟んで9月の授業はわずか3時間程度。ここで2本の文章を読む。まずは前田英樹「物と身体」を読む。「ちくま評論入門」の兄貴分のアンソロジー「ちくま評論選」に収録されている文章だが、新課程になってからは購入していない。前田英樹の文章は「論理国語」教科書に「絵画の二十世紀」が収録されている。これは機会があれば。

 前田はフランス思想が専門で、ここでは哲学的な認識論を展開して、かつ「哲学」をおちょくってもいるのだが、専門が「思想」というのは、つまりは哲学者ということではないのか(自分では「哲学」をやらず、ただ哲学を勉強してます、ということなのか?)。

 この文章は今までのどの文章のどういう議論と通ずるか?


 一読してまず日高敏隆「生物の作る環境」と、昨年度の松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないか」を連想してほしい。

 それぞれの文章と「物と身体」の論旨の共通点を簡潔な一文にする。そしてそれらの論旨の関連を考える。


 論理的に先に置かれるのは「人工知能は…」との共通論旨。

人は(生物は)身体を通して「もの」を認識する。

くらいにまとめられる。身体は世界認識の為のメディアなのだ。

 この論旨がそれぞれの文章でどう展開されていて、何と何が対応しているか?

 「物と身体」では「人間/ナメクジ」という対比で語られ、「人工知能は」では「人間/人工知能」という対比で語られる。つまりナメクジとAIが対応していて、例として消しゴムと椅子が対応している。

 人間のように消しゴムを使わないナメクジは消しゴムを認識することはできず、人間のように椅子に座らないAIは椅子を認識することはできない(人間のようには)。


 この論旨が「生物が作る環境」との共通論旨に結びつく。

それぞれの生物にとっての「世界」はそれぞれ違っている。

 これがユクスキュルの「環世界」論だ。ユクスキュルはダニ・蠅・犬などの例で、前田はナメクジで、人間とは違う「環世界」を描写してみせる。

 二つの論旨は因果関係をなしている。

 生物は身体によって世界を認識するから、身体が違えば認識する世界も当然違ってくる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違う。ドミニク・チェンが環世界という言葉を使うときは、こうした身体による一人一人の認識の差異だけでなく、文化による認識の違いも問題にしている。


 ここまではすぐに考えつく。

 だがこれを「思考の誕生」「物語るという欲望」「未来をつくる言葉」と重ねようというのだ。

 これは抽象度を上げないと重なってこない。

 どう考えるか。


 その前に授業ではまず、どの文章を連想したかを聞いたのだが、ここで柄谷行人「場所と経験」が出てきたのは想定外だった。

 確かに「物と身体」にも「場所」という言葉が途中に一カ所出てくる。だからといって論旨が重なるのか? と思ったが、意外といける。

 「場所と経験」の論旨を簡単に言うのは難しい。ここまで読んだ文章の中でも印象がまとまりにくいはずだ。

 それでも簡単に言うなら、「経験」は「場所」と結びついている、とでもいおうか。裏返してみる。「場所」と結びつかない「経験」は「経験」にはならない、ということになる。

 柄谷は、このことを言うために場所の捉え方として二つの捉え方が対比する。本当は三つなのだが、さしあたり問題は二つだ。「歩く/地図を見る」だ(この対比を抽出するのがなかなかに難しかった)。

 この「地図を見る」ことによる場所の捉え方が「物と身体」のデカルト的捉え方に対応している。抽象的・観念的な捉え方だ。

 それと対比されているのが「歩いて場所を感じる」捉え方で、これはまさに足=「身体」で場所を捉えるということだ。

 前田が「生活者/デカルト」という対比で世界の捉え方を問題にしているのがちょうど柄谷の「歩く/地図を見る」という対比に重なる。


 もう一つ、C組ではH君から「広告の形而上学」が挙がった。これも想定外。これはどう重なるか?

 ヒントはメディア(媒介)という概念。

 これは「生物が作る環境」「人工知能は」のように、共通する論旨を表現することはできない。ただ、論理の共通性を言うためには、同じ文型でそれぞれの文章の論旨を言えば良い。

 どう言うか?

  • 商品の価値は広告を通して捉えられる。
  • 物の実在は身体を通して捉えられる。

 つまり「広告/身体」がメディアとして並置できるのだ。もちろん裏返してもいい。

  • 広告がなければ商品の価値はわからない。
  • 身体がなければ物の実在はわからない。


 こういう想定外があるのが授業の醍醐味。



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