ここまでの授業では、テキストから得られる情報を詳細に検討することで、一般的に「エゴイズムと倫理感の葛藤を描いた小説」などと言われる「こころ」を、それとは全く別の物語として読んできた。
「エゴイズム」を主題とする「こころ」は、「私」の認識した物語としての「こころ」だ。「私」は自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやり、「倫理」感ゆえに苦しむ。
だが、上野公園の散歩における会話の分析を通して見えてくるのは、互いの言葉がまったく相手に理解されないまますれ違っている意思疎通の不全だ。
その時「こころ」の主題は、近代的個人がそれぞれに自分の自意識の中で自閉している「こころ」のありようを描いている、と捉えることができる。
ところで「こころ」には、もうひとつの「こころ」のありようが描かれていると授業者は考えている。
そうした「こころ」のありようは、それぞれに「近代」という時代が生み出した「個人」の成立とともに生まれたものだ。
昨年度から「近代」と言えば「個人」だ。
では「個人」と言えば?
例えば昨年第三回一斉テストで出題した小坂井敏晶「責任―責任概念と近代個人主義」の一節(早稲田文学部で出題された問題)。
人間は主体的存在であり、自己の行為に対して責任を負う。この考えは近代市民社会の根本を支える。殺人など社会規範からの逸脱が生じた場合、その出来事を起こした張本人を確定し、その者に責任能力が認められる限り、懲罰を与える。人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという人間像がそこにある。この責任概念は、(1)行為を生み出す動力因としての自由な主体・意志の存在と、(2)因果律の客観性という二つの仮定に支えられている。以下順に検討し、我々が抱く責任感覚の論理構造と時代拘束性を明らかにしたい。
冒頭の「人間」は「近代的人間」のことだから「個人」という意味だ。
ここに述べられている「主体」「自由」「責任」の関係は、近代の入り口に生きた漱石にも、いたいほど感じられていたはずだ。「こころ」にはその感覚がまざまざと書き留められている。
長い「こころ」の授業の最終段階では、この問題について考察する。
「自由」と「責任」はどういう関係にあるか?
この問いにはどこのクラスでも難渋した。
さしあたり「自由は責任を伴う」などと言うことはできる。「自主自律」が校是になっている本校では、しばしばこうした決まり文句が飛び交う。
だが今回は「自由」の方を前提に、「責任」の方を先にした言い回しをして、と指定するとたちまち詰まってしまった者が多かった。
上で小坂井が語っていることをシンプルに言うと「責任は自由を前提にしている」だ。何のことか?
意味をはっきりさせるためには、対偶にしてみることが有効だ。
自由でなければ責任を問うことはできない
さらに具体例が思い浮かんでいることが「理解している=腑に落ちる」ためには必須条件だ。
例えば刑事責任を問うためには本人が自由に行為できたはずだという前提が必要だ。心神喪失状態は、だから罪に問われない。授業ではマインドコントロール下にある行為なども例に挙がった。
こうした「自由/責任」が「近代的個人」の条件だ。
さてこれが「こころ」の主題とどう関係するか?
にわかにはわかるまい。「個人」というだけなら「こころ」とつながる経路が想像できないことはない。「個人」とは共同体から切り離された存在だ。そこから「孤独」などという単語が思い浮かべば、Kの死因である「淋しさ」とつなげて考えられそうだという見当がつく。
では「自由と責任」は?
一方「こころ」の主題は「エゴイズム」と見做されているのは周知の事実だ。授業でもさんざんそう言ってきた(それを否定する意味で)。
「エゴイズム」とセットになっているのは「罪悪感」で、例えば「こころ」は「エゴイズムと、それゆえ犯した罪に対する罪悪感から死に至る近代知識人を描いた」などと言われる。
「エゴイズム」と「罪悪感」の関係は「自由」と「責任」の関係に似ている。
どういう意味で?
罪悪感があるということはそのことに責任があると見做しているということだ。Kの死に罪悪感を感じるのは自分のせいだと思っているからだ。
責任を問うには、主体が自由であることが前提だ。つまり罪悪感を抱くのは、自分でそれをする自由があったということだ。
自分が利己的であることに罪悪感を感じるということは、己に利するように行為する自由があったということに他ならない。
この「エゴイズム/罪悪感」と「自由/責任」の問題をすっきりと説明するのは、どこのクラスでも実に難渋した(だからこれをすっきりと説明してみせたH組K君は大したものだった)。
こうして近代的個人がもつとされる「自由と責任」の問題が「こころ」につながってくる。
さて、「こころ」の「私」は自由だろうか?
「こころ」の主題を「エゴイズム」が主題だというのは、「私」がKを裏切ってお嬢さんを自分のものにしようとあれこれ画策したことを「私」の「利己心=エゴイズム」によるものだと見なすからだ。
だが「私」の折々の選択は本当に「利己心」という言葉が示しているように「己に利する」ものであったのか。
確かに「私」はそうしようとしてもいる。
だが同時に、その選択は常に、どうにも不自由な、やむにやまれぬといったような、まるで外部から強いられたような息苦しさを感じさせる。
そうした不自由さによって「私」がむしろ自分では選択できずにいるうちに、事態はますます「私」を不自由な状況に追い込む。「私」は常に事態に遅れるように、そう選択することしかできない。
こうした蟻地獄のような悪循環は、実に巧妙な設定によって、読者にも我がことのように感じられる。読者は様々な場面で「自分でも確かにそうしてしまうだろう」と感じる。
「こころ」には、この感じ、身近な、何だか身につまされる、身に覚えのある、ある感覚がみなぎっている。
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)
これは第一部で「先生」が、大学生の「私」に向かって言う言葉だ。
最近の脳科学の成果は、人間の「意志」などというものが、実は錯覚なのだという仮説を提示している。我々は脳の無自覚な働きでまず行動し、それが自分の決断だったのだというストーリーを後からでっち上げているというのだ。
百年以上前に漱石が書いていることが、まるで最新の科学の知見を先取りしているようで面白い。
これは身に覚えのある感覚でもある。なんで自分はそんなことをしてしまったのか?
授業の最終段階では、このような不思議な「こころ」のはたらきについて考察したい。