2023年11月22日水曜日

こころ 25 -真相に気づく

  「進む/退く」とはどこへ向かって「進む/退く」ことなのか。文脈からは二つの正反対の解釈ABが可能だ。いったいどちらなのか?


 ABは相反する。そのままにしてはおけない。

 ディベート的に議論させてもそれなりに楽しいのだが、実はそこに注力して時間を費やすのは惜しい。決着はどちらかに軍配が上がるという形でつくわけではないのだ。

 この「解決」は、それぞれのクラスで誰かが気づく。皆それぞれ、自分はその「解決」を思いついただろうか?


 こう考えればいい。Kが言った意味と「私」が受け取った意味が違っていたのだ。二人はそれぞれ次の意味で「進む/退く」と言っているのだ。

 K 今まで通りの道を進む/道を退く

 私 お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める

 つまり先のAは「私」の認識している方向での「進む/退く」であり、BはKが意図しているそれなのだ。

 二人は直接の会話の中で一度として具体的に「進む/退く」の方向がどこを向いているのかを口にしていない。そしてお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話しているのだ。


 こうした結論は「正解」のように「教わる」べきではない。授業における読解は、その結論を「理解」すべきものではなく、認識の変容として「体験」されるべきものだ。最初無理に感じられたかもしれない二つ目の解釈が、しかし考えているうちに腑に落ちる感覚こそ体験してほしい。

 そもそもこんな解釈を聞いて、そうなのかと簡単にうなずくべきではない。まずはこんなものは「トンデモ解釈」なのではないかと疑うべきなのだ。

 なぜか?


 まず普通の感覚としては、こんな馬鹿げたすれ違いが成立しているのだと言うこと自体が不自然で受け入れがたい。どこかでどちらかが気づきそうなものだと考えるのが自然だ。

 だが実際に、こうした仮説を元に本文を読み返してみると、別に矛盾はない。ふたりがすれ違いに気づくきっかけは、周到に回避されているのだ。


 さらに、こうも考えてみるべきだ。

 こんな解釈を、普通の読者が気づくわけがない。読者が気づかない公算の高い解釈を要求すること自体がありそうもないことだと考えるべきなのではないか? わかる者がほとんどないような真相を用意して、それがミステリーのように解き明かされるわけでもないというのに、そんな設定を作者が意図したのだとどうして信じられるのか?

 だが作者にはこうする理由がある。謎は簡単に解かれてはならないのだ。真相は深く探る者にしか明かされないようにしなければならない。

 なぜか?


 これが一人称小説だからなのだ。

 真相が容易にわかるならば、まず「私」がそれに気づいてしまう。気づいてしまうということはすれ違いが解消してしまうということだ。

 だからこの真相は、何より「私」に気づかれないように起きていなければならないのだ。

 だがこれを実現するのはきわめて難易度が高い仕事だ。

 読者は語り手の語る言葉からしか情報を得ることができない。そしてその語り手に気づかれないように、真相に至ることが可能な情報を読者に伝えなければならないのだ。

 その結果、読者もまたこうした真相に気づくのが難しくなっている。


 こうした真相に至るアイデアを発想すること自体がもう容易ではない。クラスで誰も閃かないでいるようなら、ヒントとして提示したのが「アンジャッシュ」だ。

 Youtubeなどでも見ることのできるアンジャッシュのコントの多くは、二人の会話がそれぞれ全く違った一貫性で続けられ、その事にお互いが気づいていないちぐはぐさがおかしみを生むという構造になっている。

 こうした仕掛けはアンジャッシュの発明というわけではない。

 100年以上前に「こころ」を書いていた漱石が念頭に置いている可能性があるとすれば古典落語の「蒟蒻問答」かもしれない。


0 件のコメント:

コメントを投稿

よく読まれている記事