全体の流れをたどり、全体の把握の枠組みを確認してから、さてようやく細部の読解に入る。
ここからの展開はしばらく、「私」とKが上野公園を散歩するエピソード①「下/四十~四十二」章の読解だ。
この部分の精密な読解は、知的興奮を味わえる高度な考察の果てに、目も眩むような「コペルニクス的転回」による認識の更新が訪れる鮮烈な体験になる。
みんなは既に通読してあるはずなので、毎度のこと、授業は本文を順に追ったりはしない。ここでは核心といっても過言ではない次の一節について最初に考える。
彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、―覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。(127頁)
「覚悟」という言葉の重要性は、最初のプロット確認の段階で、クラスによっては確認した。①のエピソードで登場するこの言葉が、②③によってクローズアップされ、それが④を引き起こす導因になるのだ。
この「覚悟」とは何をする「覚悟」か?
考えうる候補は次の三つ。
①お嬢さんを諦める「覚悟」
②お嬢さんに進む「覚悟」
③自己所決する「覚悟」
①は文脈に従った素直な解釈。
②は、そのまま読み進めると、翌日に「私」がたどりつく解釈。
問題は③だ。どこから出てきた?
だが③を支持する者は多い。
③のみ、もしくは①と③の意味を含むニュアンスだと考える者は、以前の学年で調査したところ、生徒の3分の2に及んだ。
③を支持する者は、そうは考えない3分の1の者に向けて、Kの「覚悟」に自殺の意味合いが含まれていると考えることの妥当性を説かなければならない。
その妥当性を主張するのはそれほど簡単なことではない。
だが一度そうだと思ってしまうと、もうそのように思うことが当然のように感じられる。それでもあらためて考えてみる。
そのような論理はどこから生じたのか?
またその妥当性は何に支えられているのか?
Kがその言葉を口にする場面で、そこに自殺の意味合いがあることに「私」が気づくことはありえない。そもそも読者にもそのように解釈することは不可能だ。
この解釈は、後ろまで読み進めて、実際にKが自殺することを知って、振り返ってみたときにしか成立しない。
そして、そう考えたときに、ある程度の説得力、納得感があるのは否めない。
だがその妥当性の根拠を説明しようとすると、それはKの自殺の動機を説明することになってしまう。Kの自殺の動機を③「道」を外れた自分を許せないからだと考えた者は多い。そのことを繰り返してしまう。
Kがこの月曜日の時点で自殺する動機が既にあったことは、Kが自殺の意味で「覚悟」を口にすることがありうることの前提ではある。だがそれは、この時口にした「覚悟」がそれを示すと考えることとは別だ。
問題は、この場面でKがそれを口にしたのだと考える必然性を説明することだ。
それはなかなかにやっかいな論証だ。
自殺の意味合いが含まれているか否かの検討をいったん措いて、まず①と②について検討する。
まず会話の時点で「私」はこの「覚悟」を、「お嬢さんを諦める覚悟」だと思っている。そのつもりでKに「覚悟はあるのか」と迫ったからだ。
ところが「私」は翌日(129頁~)には「お嬢さんに進んで行く覚悟」だと考える。
「私」はなぜ「覚悟」の解釈を翻したか?
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