ここまでたどって、ようやく最初に考察した「覚悟」に戻る。
「もうその話はやめよう」と彼が言いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「やめてくれ」と今度は頼むように言い直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。
ここにある「変に悲痛なところがありました」の「変に」もまた、「私」がKの心を理解していないことを示すサインだ。「悲痛」なのは、「私」の言葉がKの存在をまるごと否定する死刑宣告に他ならないからだが、そのことを「私」は自覚していない。「私」が語る「変に」は、事態の深刻さがまるでわかっていない暢気さの表れだ。
自らの弱さを認めているKにはそれ以上話すべきことはない。だから「もうその話はやめよう」というしかない。そしてKには「君の心でそれをやめる」が「お嬢さんのことを考えることをやめる」という意味ではなく、会話の流れにしたがっていうと「信仰の進退について悩むのをやめる」という意味に受け取られている。
「覚悟」とは先に見たとおり「心でそれをやめる」「覚悟」だ。それは「心で『話』をやめる」すなわち「考える」ことをやめることを意味している。
ここに見られる「残酷」もまた、先の「復讐以上に残酷な意味」と同じだ。「私」がKに迫る「覚悟はあるのか?」という問いは、「お嬢さんを諦める覚悟」をKに宣言させようとしている。「私」にとってそれこそが「残酷」だ。
だが「悩むのをやめ」たKに許されるのは単にお嬢さんを忘れることなどではなく―ましてお嬢さんに進むことだはずもなく―弱い自分を所決することだけだ。
したがってKは自らを所決する「覚悟」はあるのだ、と言っだのだ。
単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。これがKの真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの巧妙さにこそ、読者は驚嘆すべきだ。
だがこのことの凄さはじっくりと分析的に考えないと気付かない。
だからともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟」でもあると同時に、とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られる。そうではない。これら三つの解釈はどちらでもありうるようなものではなく、排他的なものだ。
「お嬢さんを諦める覚悟」があるのならKは死を選ぶ必要はないはずだ。したがって「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを所決する覚悟」は両立しない。
あるいは「明確でないにせよ何らかの形で所決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」とは呼ばない。「お嬢さんを諦める」もしくは「自己処断としての自殺」といった決着点が見据えられていなければ、「覚悟」という強い言葉が使われるはずがない。その方法や時機については漠然とした曖昧なものであったとしても、少なくとも「死」といった決着点が想定されたうえで「覚悟」という言葉が発せられていることだけは確実だ。
Kの言った「覚悟」を「私」が二つの正反対の意味に解釈したのも、K自身がそれとは全く違った意味で「覚悟」と言っているのも、すべて文脈の中では整合的だ。
二人の会話はこのとき「卒然」すれ違ったわけではなく、最初からことごとくすれ違ったままだったのであり、その裂け目がこのとき「卒然」露わになって、その奥の暗闇が顔をのぞかせたのだ。
Kは最初から自らの信仰上の悩みについて話していたのであり、お嬢さんとの恋のことなど話してはいない。会話全体のすれ違いをたどり直してみれば、Kが言った「覚悟」が「自殺の覚悟」を意味しているという解釈は無理がないどころか、これはもうそう考えるしかないのであり、「卒然」というべき飛躍はそこにはない。
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