2026年11月4日水曜日

こころ 14 曜日の特定8-①散歩はいつか

 この先の議論を進める前に、次の確認をしておく。

 ④「月曜日」、また①②③の日は、それぞれ本文のどの記述からどの記述までに対応しているか?


 ある程度の長さの文脈を一気に把握することは、意識しないとできない。一息で把握できる文脈の長さは、そのまま読解力の高さを示している。いま目で追っている文章が前後の文脈の中でどのような位置にあるかを捉えることは、文章を読む上で決定的に重要だ。

 「土曜日」「月曜日」という認識が、どれほどの範囲の文章を把握する際に必要な枠組みなのかを意識したい。


 ④談判のあった月曜日の始まりは130頁下段の「一週間の後」から135頁までだ。その日のうちに談判から神保町界隈の彷徨、気詰まりな夕飯の場面までが含まれる。「室に帰」った時点を「二、三日」「五、六日」の始点とするという推論をしてもそれが130頁から続く④と同じ月曜日の夕方のことだとわかっていなければ議論を先に進めることはできない。

 ③の始まりは129頁上段の「しかし翌朝になって」から。便宜的に下段の「その日は」からだと考えても良い。

 ②の始まりは128頁下段の「上野から帰った晩は」。

 ①は随分遡って122頁、章変わりの冒頭「ある日…」から始まる。ここから②の終わり129頁上段の「しかし翌朝になって」の直前「私はそれぎり何も知りません。」までが同じ一日だ。

 3章半に渡るこの部分に含まれる①「上野公園の散歩」と、謎めいた②「真夜中のKの訪問」はそれぞれ考察に値する。

 さてこの長さが一掴みに把握できたところで、ではこれは何曜日か?


 考えるべき点は130頁の「二日たっても三日たっても」と「一週間の後」の関係。考え方の手順は既に把握しているはずだ。

 結論としては前に考えた「二、三日」と「五、六日」の関係と同じく、始点を同じくする同一の時間経過を含む期間であると考えていいだろう。

 そう考えられる根拠は何か?


 上記にならって、「三日」を「一週間」と区切る特定の出来事が見出せないからだ、という言い方が簡便。三日の終点と一週間の始点に、何もそれらしいイベントが見つからない。

 継続/差異という論点で語っても、4で考察した「二、三日」と「二日余り」のような質的差異は見出せず、ただ機会をうかがう「いらいら」が続いているだけだ。

 そして、こうした設定を裏付ける重要な根拠となる副詞がある。指摘できただろうか? 何か?


 「一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって」の「とうとう」だ。

 「とうとう」は、その前に経過を前提する副詞だ。「二日たっても三日たっても」という途中経過を受けていると読み取るからこそ「とうとう」が自然なものとして感じられる。

 では「一週間」の始点はどこか?


 この「一週間」は、「私はいらいらしました。…私はとうとう堪え切れなくなって」から、奥さんへの談判の「機会をねらってい」た期間だと考えられるから、始点はそう思うようになった「私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞」いた日、つまり「覚悟」について考え直した③「翌朝」だ(129頁)。

 とすれば、奥さんと談判したのが月曜日だという先の結論から遡ること「一週間」、前の週の月曜日がそれだ。つまり③が月曜、①「上野公園の散歩」はその前日、日曜日ということになる。

 これで全ての曜日を特定したと考えていいだろうか?


 ここには誰かが待ったをかけてほしい。

 ①の始まりの時点で「私」は学校の図書館で調べ物をしている。大学が日曜日に休講であることを④の考察時に根拠にしたように、当時の帝国大学図書館が日曜休館であったと考える必要はないのだろうか。

 高校の図書室は日曜日はむろん休館だ。一方で自治体の公共図書館は日曜にも開館している。国立国会図書館は日曜祝日は休館。では大学の図書館は?

 現在の大学の図書館は学生の利便性を重視して日曜日も開館している大学が多いと思われるが、明治時代の帝国大学図書館はそのような利用者サービスに配慮していたのだろうか。


 ①「ある日」と平日とすると、③も登校途中で平日だから、①が月曜日、③が火曜ということになる。

 とすると、「いらいら」と「機会をねらっていた」のは「一週間」ではなく「六日間」ということになってしまう。「一週間」というのは①から④までの期間ではなく、③から④までの期間だからだ。

 それでもかまわないか?


 かまわない。そもそも当時から何年もたって書かれた遺書に「六日後になって」などと正確な日数を書く方がむしろ不自然だ。「私」がここだけ正確な日数を覚えていると考える必然性もない。他の日程が「二、三日」「五、六日」といった曖昧さをもった表現なのだからこの「一週間」だけが正確に「七日」を指していると考えなければならないわけではない。

 といって他と同様の「六、七日」「七、八日」などという表現もかえって不自然だ。「私」は機会を待ち構えて「とうとう」④の機会を捉えるのだから。それは奥さんのもたらされることによって唐突に直面する⑥とは違う。

 したがって、曖昧ではなく、といって「六日」などいう奇妙な具体性で③-④間を表現するより、ここでは物語が大きく動くエピソードとして、週始めの①②③から、次の週の始めに置かれた④までの間隔を概ね「一週間」と表現したのだと考えるのは、まったく自然な想定だ。


 さて、だが帝国大学図書館が日曜日には休みだろうという推測を論拠に無理矢理「六日」なのに「一週間」と表現しているのだと主張し続けるのも芸がない。実は当時の帝国大学図書館は、日曜日にも限定的に利用可能だったとする資料もある。

 だがあくまでテキスト内情報からこれを解釈してみよう。

 ①が日曜のように感じられるか月曜に感じられるかを弁別する手がかりはないか?

 問題の122頁を読んでみよう。漱石の想定がはからずも表れている言い回しはないだろうか?


 「私は久しぶりに学校の図書館に入りました」の「久しぶり」が①が週明けの月曜日でことを示しているのではないか?

 この指摘は班の中で誰かが提起してもいい。

 だが、週末くらいで「久しぶり」は大げさではないか?

 実は「久しぶり」には別な意味がある。月曜日を示すというよりも強い納得感のある「意味」が。


 これは、その前のKの自白のエピソードが正月だったことから考えて、冬休み明けであることを示しているのだ。

 そのことは一つ前の章の中盤、教科書の前の頁に「そのうち学校がまた始まりました。」とあることからわかる。ここと「久しぶりに」が対応して、読者には納得されるはずなのだ。


 それよりも、図書館にいる事情を語る次の一節から、この日の曜日について推論してみよう。

私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べてこいと命ぜられたのです。

 これは月曜日っぽく感じられないだろうか?


 この日が日曜日だとすると、「次の週までに」とは「明日(から始まる週のうち)までに」を意味することになる。ところが「私」はようやく探し出した論文を「一心に」読み始めたところに現れたKに心を乱され、あっさり調べ物をやめてしまう。急ぐべき調べ物はどうするのだろう。

 一方この日が月曜だとすると、「次の週」とは言葉通りの一週間後である。

 必要な論文は見つかったことだし、今日はもう調べ物を中止してもよかろう…。

 こうした想像はこの日を日曜とする上の仮定よりも自然だ。


 そもそも「命ぜられた」は「命ぜられていた」とは違う。今日が日曜日だとすると担任教師の指示は「命ぜられていた」の方が自然に感じられる。

 「命ぜられた」は?

 今日「命ぜられた」のだ。休み明けの最初の授業で教授に「命ぜられ」、それを実行するため、その日の放課後に図書館に来たのだ。とすればこれは月曜日だ。

 「勘定してみると」の考察に見られるとおり、表現の細部には、その表現が選ばれた必然性が表れる。漱石が各エピソードの起こった曜日を想定して書き進めているとするなら、この日は月曜日だと想定されていることが、これらの細部の表現に表れていると思われる。


 推論の根拠としてもう一つ、かつての生徒の興味深い解釈を紹介する。

 この場面、図書館と上野公園に人気の多い/少ないという対比があるように思える、と彼は言う。

 Kとの重要な対峙の場所として、人が多いところから、人のいない閑散とした空間の移動があるのではないか。

 とすれば、図書館に学生が多いのは日曜よりも月曜であり、公園に人気がないのも日曜よりも月曜がしっくりいく。

 物語の舞台となる空間の象徴的な対比などというのは、なかなか面白い分析だった。


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