2026年11月1日日曜日

こころ 13 曜日の特定7-「二日余り」の意味

 ところで、保留にしていた、⑤が水曜日である可能性について検討しよう。

 ここは、さりげない表現にも漱石の周到な計算が読み取れる、きわめて興味深い考察が可能な箇所だ。


 「二、三日」と「二日余り」を足して「五日」になればいいのだから、⑤が水曜日だとしても、そこまでが「二日」で、その後の⑥までの「二日余り」が「三日」だとしても、計算は合う。

 つまり⑤は水曜日と木曜日のどちらでも良いことになる。

 この可能性は同じ程度なのだろうか。漱石がプロットを立てる段階で曜日を決めているという仮説にしたがえば、それがどちらかは、表現に表れているのではなかろうか。

 間違いなくどちらかでなければならないという必要はなく、どちらかにそれなりの妥当性があれば十分だ。


 考える糸口は、先にもふれた「二、三日」と「二日余り」という表現の違いだ。

 「二、三日」は前から数えた日数で、「二日余り」は後ろから数えた日数で、さらに「二、三日」よりも「二日余り」の方がやや数え方が精密だ。

 なぜか?

 「二日余り」は「勘定」された日数だからだ。


 この「勘定してみると」という表現について考えてみよう。

「勘定してみると」とはどういう意味か?

 いやこれでは問いの体をなさない。言葉通りの意味だ。だが実はその「意味」はまだ明らかではないのだが。

「勘定してみると」はどのような思考か?

 これならいくらか問題の焦点に向かっているのだが、問いとしてわかりやすいとはまだいえない。

なぜ「勘定」することができたのか?

 もうちょっと。

「勘定」が可能な手がかりとは何か?

 よし、これと「二日余り」の「余り」とは何か? を併せて考えよう。


 もちろん奥さんが「二日余り前」と言ったわけではない。奥さんが「二日前にKさんに話した」と言ったのだとすれば、「私」は「勘定」することなくそのまま「二日前」と認識するだけだ。

 「勘定してみると」は、あえてそれを数える一手間があったことを示している。

 「一昨日」でも同じことだ。「一昨日」では「勘定してみると」というもってまわった言い方は必要ない。「勘定」するまでもなく「二日」であることは明白だからだ。

 では奥さんが「木曜日」だと言ったのか?

 これでもまだ計算が容易すぎる。「勘定してみる」というほどの手間には感じられない。

 では「私」はどうやって「勘定し」た=数えたのだろう。

 「勘定」は現在⑥と⑤の間隔を数えることだから、つまり⑤の日時を推定することによって「勘定し」たのだ。

 つまり曜日が先に措定され、それによって日程が「勘定」されているのだ。そしてそれは水曜日ではない。水曜日であることがわかればただちに「三日」と計算されるのであって、「二日余り」と表現されはしない。

 また、奥さんは⑤がいつだったのかを直接的な言葉では言わなかった。それがいつだったのかを「私」が推定したのだ。それから「勘定」したのだ。

 「私」が⑤の日時を推定することができる条件として妥当なアイデアは、今のところ三つ。このうちどれかを考えつけば上出来。


案1

 ⑤が実行可能な機会がいつだったかを推測した。

 奥さんがKに話をしたのは、当然「私」が不在で、Kと奥さんだけが下宿にいたタイミングに違いない。そういう機会がいつだったかを思い出せば、そこから本日、土曜日までの日程を「二日余り」と「勘定」することができる。

 奥さんの話の中に、「あなたがあの日、学校から帰ってくる前に…」とか「娘が習い事に行っている間に…」などという言葉があったとすればさらに「私」の推測の手がかりになる。


案2

 奥さんの態度の変化から推測した。

 「二、三日」の考察でも確認したとおり、それまで「私」に「つっつくように」催促していた奥さんの態度は、④を境に鎮まったと考えられる。だが、「私」がそれを明確に意識することは難しいはずだ。そこから、これを「二、三日」と「二日余り」の差異としては認定できないと結論したのだが、ここでは逆に「二日余り」から遡った推測がなされている。すると、それぞれの夕飯に限定して、そこでの奥さん・お嬢さんの態度を順に思い出し、それが木曜を境に変化していることを認識するのは、前からたどる時よりも容易だと考えられる。ならば「勘定」することは可能かもしれない。


案3

 奥さんの話の中に「三日」という言葉が含まれていた。

 奥さんの話には、上述の通り⑤から⑥の日程を示す直截的な表現は含まれてはいなかったはずだ。だが「勘定」が可能な情報として「三日」という言葉が含まれていた可能性はある。具体的に、奥さんは「私」に何と言ったのか?

 奥さんが「三日も経ったんだから当然もうKさんは知っているだろうと思って、私、話しちゃったんですけど…」などと口にしていたら、「私」は談判のあった月曜日から「三日」、つまり⑤が木曜であったことを特定し、さらに現在の土曜日までの経過を「二日余り」と「勘定」することはできる。


 これらは排他的ではないので、手がかりがどれであるにせよ、それぞれを傍証として推測をはたらかせたと考えても良い。

 ここまでくれば「二日余り」の「余り」というのは何のことかもわかっているはずだ。

 ⑤のタイミングは木曜の日中のことだと推測され、一方⑥の「勘定」が土曜日の夕方以降だったことを意味している、と考えるのが合理的だ。

 もちろん上のような想像においてさえ、厳密には「私」が水曜日か木曜日という曖昧な推定をするしかなかったという可能性は否定しきれない。Kが「私」より先に帰った日は水曜と木曜の二日ともであったかもしれない。夕飯の奥さんの態度の変化は、それほど明確には思い出せないかもしれない。となれば「二日余り」はあくまで「二日以上」でしかなく、先述の結論のとおりやはり「木曜か水曜」でしかない。

 だが重要なことは結論ではなくこうした推論過程の考察だ。

 そもそもこの一連の考察は、作者漱石があらかじめ各エピソードをカレンダー上に配置して書き進めているのではないかという想定に基づいている。とすれば、漱石にしてみれば「水曜日か木曜日」のような曖昧な想定をする必要はなく、単に木曜日と想定するのが簡便だ。

 だから蓋然性からいえば「私」は木曜と特定できたか、もしくは奥さんは「三日も経った」という表現を使ったと考える方が自然だろう。

 したがって今後は便宜上、⑤を木曜とする共通認識で話を進める。


 いずれにせよ、上の推論のような想定を、漱石が自覚的にしていたことは明らかだ。そうでなくて「勘定してみると」という表現が置かれることはありえない。

 なのにこうして考えてみるまでは、読者がその周到な計算に気付くことはないのだ。



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