もう一つ有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズから、「こころ」の回の一部を視聴した(実はスペイン語字幕のついた全編がYoutubeで見られる。レンタルなどでも見つかるかもしれない)。
アニメーションとしての質は高い。作画やカメラワークも巧みだし、とりわけBGMやSEなどの音響の演出と、Kを演じた小山力也の声がとても良い。ただ、かなり大胆なアレンジをしているので、原作ファンからは賛否がありそうである。これを見て「こころ」がわかった気になってはいけないのは「Rの法則」同様だ。
だがこのアニメ化で注目すべきは、前後編2部構成にして、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることだ(そこに賛否両論あるんだろうけれど)。今回は前後編を混ぜてストーリー順に編集したものを見てもらった。前編は夏を舞台にして、後編は冬を舞台にしているので、蝉が鳴いたかと思うと、次のシーンでは木枯らしが吹いたりする。
この試みがとりわけ面白いのは、同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面が対比できることだ。教科書収録場面より少し前のエピソード、雨中のすれ違いの場面が、最初「私」の目から描かれる(三十三~三十四章。原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)。
これは「Rの法則」でも紹介されていたエピソードだ。「私」がKとお嬢さんの関係について疑惑を深めることになる印象的な場面である。
その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。
それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか!
お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書118頁にある。Kを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れない)。
「国語科」的な考察をしよう。
すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスが、二つの視点からそれぞれどう違っているか、的確に表現できるだろうか?
表面的には、狭いすれ違いで道を譲ってもらったことに対する「悪いな」だ(石畳を外れると水溜まりに足を踏み入れることになる。長靴に水が浸みこむ描写がある)。
それが「私」の目からはまるでKが「お前の好きなお嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」と言っているように感じられる(C組IさんM君からは、このシーンの「道を譲る」が「お嬢さんを譲る」のメタファーになっているという指摘があった)。
ところがKからすると、自らの日頃の広言に反して女に心を奪われている自らの状況を懺悔しているように感じられる。
この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解では折にふれ思い出してほしい(そういえばこれは昨年度終盤の考察を貫くテーマだった)。
それは、何が小説内「事実」で、どこに語り手の主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業だ。
あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのだ。
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