2023年10月25日水曜日

こころ 8 曜日の特定5-いつ「私」に話したか

 ⑥と⑦は本当に同じ日の出来事なのか?

 ⑥と⑦の間にはそれなりに時間が経っていると主張する者は、議論のために、そう考えるべき根拠を挙げる必要があるのだが、そもそもどうしてそうだと感じられたのだろうか?


 ⑥から⑦にかけて、日を跨いでいる記述がないから、という根拠を挙げる者がいる。だが日並み日記じゃないんだから、次の日になったかどうかが常に書いてあるとは限らない。実際にエピソード間は日程が跳んでいる。

 だが、実はこれは一つの有力な推論の手がかりでもある。

 論理的には、書いていないことは、あるともないとも言えない。つまり確定できない。すべての事実を小説が記述しているわけではない。

 だが、書く方が自然なことが書いていない場合は、それがないものと見なす方が自然なのだ。

 この考え方は小説を読む上では重要だ。この先何度も使われる考え方として心に留めておきたい。


 上の考え方を応用したのが例えば次のような考察。

 「しかし今さらKの前に出て」という表現からは、奥さんから話を聞いた(⑥)後、Kが自殺する(⑦)までに「私」はKと会っていないと考えられる、したがって⑥と⑦の間にそれほどの時間経過はない。

 これはかつての生徒からも出た意見だが、今年もいくつかの班から出た。これは妥当か?


 面白い問題だ。だがこれを⑥が土曜日であることの決定的な根拠とすることはできないと授業者は考えている。

 むしろ、⑥の後に「私」はKと会っていると考えるべきだというのが授業者の意見だ。

 奥さんはむろんKのいないときを見計らって「私」に⑤の件を話したのだろうが、その後Kは帰宅して、「私」と夕飯を共にしているはずだ。なぜならそれが日常だからだ。⑥が土曜だとすれば、その晩にKが自殺したのだから、Kが夕食時にいなかったという特別なことがあれば、それこそ書かない方が不自然だ。

 したがって、「私」はKが既に婚約の件について知っていることを知った上で、夕飯の席でKと顔を合わせているはずなのである。

 ただしこれは想像だに緊迫した場面だ。

 だがそうした場面は描かれない。といって、書かれていないから小説世界にそのようなものは存在しない、ということにはならない。あることが自然なことは、書かれていなくとも「ある」とみなすべきであり、特別なことは、書かれていない以上「ない」とみなすべきなのだ(Kが実は宇宙人である可能性については、書いていないからといって考慮する必要はない)。

 もちろんこの「自然/特別」というのは程度問題だから、「ある/ない」の見做し方も程度問題だ。「私」がKと顔を合わせる夕飯の席での心理ドラマこそ「特別」なのだから、それこそ描かない方が「不自然」だと言えなくもない。確かにそれは書かれるべき必然性のある場面ではある。

 この問題の結論として、以下に述べる推論から、やはり⑥は土曜日だと考えられるのだが、とすると「土曜の晩でした」という限定の仕方は、不自然をおしてまであえてそう書く必然性があったことを示してもいる。

 「土曜」という曜日の明示がなぜなされるのか?


 これはなぜ曜日を土曜に設定したのかという問題と、なぜそのことを明示するのか、という問題を含んでいる。あるいはKはなぜ土曜日を選んだのかという問題と、作者はなぜ土曜日であることを読者に伝えるのかという問題でもある。

 まずKがあえて土曜を選んだとする。考えられる理由は、Kが翌日が日曜日であるような日を選んだということだ。平日は奥さんや下女が早くから起きる。ところが日曜の朝はゆっくりしているから、それだけ自殺した自分の姿を「私」に発見してもらうことのできる可能性が高くなる。実際に「私」が夜中に目を覚ましてKの自殺に気づき、教科書の収録部分の次の章では、明け方に奥さんを起こしにいくことになる。

 あるいはKにとっては内的な必然性のおもむくままにそれを決行したのが、たまたま土曜日だったとしても、作者が上記のような展開になることに必然性を与えようとして、そうした曜日設定にしたのかもしれない。


 だがこのようにして明示された「土曜」は、⑥をそれ以前の日のどこかであると読ませるほどには強く作用していないと思われる。

 それよりも強く⑥と⑦が日を跨いでいないと感じさせる理由は、先の引用と同じ、「私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも明くる日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。」という表現だ。

 どうしてここから、⑥と⑦が同日内の出来事であると言えるのか?

 以下に授業中に提出された推論過程を列挙する。


 「土曜の晩」でわざわざ時間帯を「晩」と明示することは、その陰でそれ以外の何かを「夕方」や「昼間」だと言っているように感じられる。つまり奥さんが「私」に話したのがその「夕方」や「昼間」だと言っていることになる。

 これは先ほどの「土曜であることをわざわざ言うときには、それ以外の、例えば⑥が土曜ではないことを感じさせる」と同じ論理の応用だ。⑦が土曜の「晩」というからこそ⑥は同じ土曜日の「夕方」や「昼間」なのだ、とも考えられるのだ。


 「ともかくも」という副詞は、それが当座の決定であることを示す。決定までに日を跨いでいたら「ともかくも」という表現は、今更何を、と感じられてしまう。だから逆に言えば、決定を迫られるような事態が生じた時点(⑥)から、まだそれほど時間がたっていないと感ずる。


 「明くる日」という時間経過を表す語は、その起点となる「本日」を必然的にかつ潜在的に前提する。それは筆者と読者に共有された認識のはずだ。となればそれがどの日であるかわからないような時点を前提するのは不自然であり、即ち⑥のあった日が「本日」として定位される。それは「明くる日」を迎えることのなかった土曜日に他ならない。


 ここでいう「進もうかよそうか」は、「話そうか黙っていようか」だ。この躊躇が日を跨いでいたとすると、そこまで既に「よ」しているのに、今更「進む」と「よす」が等価な選択肢になっているかのように言うのはおかしい。今まで「よ」してたのだから「進む」ことのみが「翌日まで待とう」という「決心」の内容となるはずだ。


 以上、いくつもの根拠を挙げることができる。このうちのひとつでも明晰に語ることができれば上出来だ(授業中にそれを発表した人たちには大いなる拍手を送りたい)。

 読者はこれらの細部を整合的に(だが無意識に)解釈して、⑥と⑦が同じ土曜日の出来事であると捉えている。


 繰り返すが、これは答えるには難しい問いだ。正しく読むことより、自身の読みの生成過程を自覚することの方がはるかに難しい(実際に、上の推論の根拠のいくつかも、授業者には思いつかなかったのを生徒が指摘したものだ)。


 さて、ここで一度宣言しておく。

 「曜日の特定」という課題は、このレベルの論理的推論とその説明を要求しているのだ、と。


0 件のコメント:

コメントを投稿

よく読まれている記事