だが授業数に余裕のあるクラスでは、最初の授業で二つの動画を視聴した。かつては全クラスで見せていたのだが、今年度は多くのクラスでは見せずに授業に入った。必須の情報があるわけではないからだ。
だが、二つの動画を見ることで、以下の考察において、構えがいくらか変わったものにもなるとも思う。その違いも興味深い。
それぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題がある。見ていないクラスにも紹介したい。
以前放送されていたNHKーEテレの「Rの法則」は、高校生を雛壇に並べて、高校生が関心を持っている様々な問題を話し合っていく番組だ。
この2012年11月12日放送回では「こころ」が、高校生の関心事である恋愛とそれにまつわる三角関係を題材とする小説として紹介された。
テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生にリアクションさせて一般視聴者の共感を喚ぼうとしているのはやむを得ない。
だがあのようにして「こころ」を知った気になることと、実際に「こころ」という小説を読むことはまるで違う。
何が問題なのか?
まず、小説本文を読んでいない高校生に、小説中の問題について考えさせることが無謀であることを番組は全く明示していない。
だから、あたかも「こころ」ではああいった問題が主題となっているような印象を視聴者に与えてしまう。
小説の中の問題を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするかを考えずに小説を楽しむことはできない。
だが、本文を読んでいない者が「この時のこの人物の気持ちは…」などと語ることが、まるで当てのない好き勝手な憶測にしかならないという危険については、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えている。
例えば「羅生門」を読んで「あなたは、生きるためにやむをえない悪は許されると思うか?」などと問いかけることが世の中で広く行われているが、そんなことは国語の授業としては間違っている。 「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない。「羅生門」の主題をそんなふうに捉えるのは、まるで小説として「羅生門」を読んでいない。
「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。
「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれだ。
例えば、小説では全く問題になっていないことが番組では問題として取り上げられている。
番組冒頭で次のような問いが投げかけられる。
- 親友と同じ人を好きになったらどうする?
この問いに対しては具体的にある行動の選択が迫られる。街頭インタビューで何人かが答える。
それが字幕で次のように言い換えられる。
- 恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?
上の問題を一段抽象化して、選択肢として置き換えたのが下の問いだ。
だがこの抽象化は間違っている。
小説中で「私」は一度として「恋/友情」の選択に悩んだりはしていない。それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることだ。
では「私」はどんな行動の選択に迷っているか?
教科書の収録部分で、「私」は一貫して「言う/言わない」という選択の前で迷い続ける。
これが「友情/恋」という選択と同一視されている。
設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、「私」が「恋か友情か」という問題に悩んでいたように錯覚する。しかもそれは大衆の共感・関心を喚びやすい。
そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、問いが突きつけられる。
だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はそれではない。
「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?
それは本文の読解によってしか明らかにはならない。
「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。
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