Kの自殺の動機として最も支持を集めるのは経験上、③「道をはずれた自分への絶望」だ。
こう考えることには、実は看過しがたい問題が含まれている。
何か?
「動機」の選択肢を並べ、「エゴイズムと倫理観の葛藤」と見比べる。
これらの「動機」と「主題」は整合的か? 不整合か?
前述の通り、「こころ」がどんな小説であるかという把握は、Kがなぜ死んだのかという把握と密接に関係している。この二つは整合していなければならない。
Kの自殺の動機と「こころ」の主題の間にはどのような論理があるのか?
「こころ」の「エゴイズム」をテーマとする小説であると捉えることと整合的なのは、動機①②だ。一方、③はそれとは不整合だ。④も、どちらかというと整合的だが、それよりも「エゴイズム」というテーマ把握は、Kの自殺の動機を①や②と捉えたところから把握された「物語」なのだと言っていい。
どういうことか?
「エゴイズム」がテーマになっているという把握は、Kの自殺を「私」の「エゴイズム」によるものだと捉えていることを意味する。
それはKが①失恋と②友の裏切りによって死んだということだ。つまり「私」がKを死に追いやったのだ(それによるKの死が④復讐だとみなすことは整合的だが必須ではない)。
一方③はこうした主題把握と不整合だ。
③はK自身の問題であり、「動機」が③ならば、「私」が「死に追いやった」ことにはならないからだ。
だがほとんどの者が、Kの自殺の動機を③だと見なし、そしてそれが「エゴイズム」主題観と不整合であるということを意識しない。
なぜか?
だがこのような「不整合」を、とりたてて「不整合」とはみなさない、ということも可能かもしれない。
確かにKの自殺はK自身の問題かもしれない。だがお嬢さんへの執着がその実行を踏み止まらせていたのだ。その生への紐帯を「私」の卑怯な裏切りが断ち切ったのだ。つまり③がKの自殺の主たる動機だとしても、最終的にそれを実行に踏み切らせたのはやはり①②であり、その原因となった「私」の「エゴイズム」の罪は否定できないのだ。
なるほど、自殺の動機をどれか一つに限定する必要などないのであって、いくつかの要因が重複して人を死に追いやるのだと考えてもいい。
だが、先の「重み付け」の想定において、①②の合計と③の重みのバランスはやはり問題だ。「エゴイズム」が主題だという把握は、やはりどうしても①②の重みが大きくなくてはならない。③の方が大きいとすれば、それは「エゴイズム」を主題とする把握とは別の主題把握を必要とするはずだ。
すると今度は、Kの自殺の動機は③だが、それもまた「エゴイズム」という主題に合っているのだと言う者も現れる。
だがそんな主張は無理矢理な牽強付会だ。それは「エゴイズム」が先に設定されていて、③をなんとかそれに合わせて言えないかと考えているのだ。
事実は、①②から「エゴイズム」が導かれているのであって、それが誰のエゴイズムかといえば「私」のものであるに違いない。Kのエゴイズムなどそもそも問題にしていなかったはずだ。
多くの読者は、世に普及している「エゴイズム」という主題と、読者として捉えているKの自殺の動機が整合していないことを意識しない。
なぜか?
これには明確な理由がある。いわば「盲点に入る」のだ。
「こころ」は一人称小説だ。「上」「中」とは交代しているが、「下」は全体が遺書であり、教科書収録部分はその一部、通称「先生」による一人称で語られる。
すると?
Kの自殺の動機を①②と見なすのは「私」の認識に基づいているのだ。
「私」はKの死を自分のせいだと思う。自らの「エゴイズム」の罪の重さが強く意識されている。
つまり「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題は、「私」の目から見た「こころ」という物語の把握なのだ。
面白いことに、宿題の段階では、①②を挙げた者が多い。それが、授業で聞き直すと支持の大勢が③へと移行する。
なぜこんなことが起こるのか?
初読の段階では、人物関係や出来事の推移といった物語の大きな枠組みや主題と整合的な①②が意識される。
ところが授業であらためて教科書を開いて考える段になると、我々読者はもう少し客観的に、公平に、Kの心情を熟慮するようになる。話し合いを通して妥当な解釈についての合意が形成される。そうすると、③が妥当なように思える者が増える。
一般に理解されている「こころ」の主題は、Kの死を「私」が「追いやった」ものとみなすことによって成り立っている。「私」の目から見れば、事態はそのように把握されているのだから、それも無理はない。
だがそれは読者が意識的に考えたKの自殺の動機と不整合だ。
つまり「エゴイズム」主題観は、雑に、あるいは浅く考えたときにのみそう見える「こころ」把握なのだ。
では自殺の動機を③だと考えるならば、「こころ」はどのような物語だということになるのか?
実は宿題の段階で「エゴイズムと倫理観の葛藤」という表現には収まらない主題を考えている者もいる。その中には、とても鋭い把握をしている者もいる。
だが本人がそれを意識しているわけでは、おそらく、ない。その人には、ごく自然に「こころ」がそのような物語に見えたということなのだろう。
「こころ」はどのような問題を描いた小説なのか。
結論にいたるには、丁寧で根気強い考察が必要となる。
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