2023年11月23日木曜日

こころ 26 -真相を信じる

 既にすっかり定まったかのように「真相」などと言っているが、むろんすべての解釈は仮説でしかない。授業者自身の脳裡にも、ある時点まではこうした解釈は存在もしなかった。

 それを信ずるための条件とは何か?


 まあよくいうところの「根拠がある」だ。

 「根拠」とは何か?

 これも何度も触れていることだが「矛盾がない」ということなら、かなり解釈の幅が許容される。「Kは実は宇宙人だ」説も。「こころ」とはBL小説だ、説も(もっともこの説はそう主張する人は相応の根拠を挙げているのだが)。

 それよりも、作者がそうした想定について、意識的に情報を読者に伝えようとしているとみなせるかどうかが、その解釈を妥当と見なせるかどうかを支えていると考えるべきだ。

 そうした、作者の送ってくるサインはどこにあるか?


 漱石がこの「方向」について意識的だったことは、たとえば次の一節を読んでもわかる。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。(128頁)

 これは上野公園の散歩のシークエンスが終わった後の章段だが、ここにもしつこいほど「方向」を示す標識が書き込まれている。

 「新しい方角へ走り出す」「愛の目的物に向かって猛進する」などは「私」の捉えている「進む」であり、とすれば「自分の過去を振り返る」、つまり信条に従って恋心を棄てることが「退く」なのだ。

 だがKの主観に立ってみれば「過去が指し示す路を今まで通り歩く」こそ「進む」ことなのだ。

 しかし、「私」の認識に同調しながら物語を追っている読者がそのことに気づくことはない。


 それでもまだ、上のような解釈が、そもそも穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか、という疑問がぬぐえないかもしれない。

 だが、こうしたすれ違いが生じているのだという解釈は、ここまで指摘した根拠のみに拠るものではなく、以下に続く「私」とKの問答全体を整合的に解釈することに拠っている。

 とりわけ「覚悟」という言葉をめぐって二人の間にすれ違いが生じているらしいという最初に行った考察については、多くの読者にも気づく可能性があろうが、実はそのすれ違いの端緒がどこにあるかを考え、会話全体を見直した時に、はじめてこの会話が、最初から一貫してすれ違っていたのだという仮説の妥当性が確かめられる。

 「進む/退く」はそうしたすれ違いを表わす方向標識として恰好の手がかりなのだ。


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