Kの口にした「覚悟」は①「お嬢さんを諦める」か、②「恋に進む」か?
その前に、なぜそもそも「覚悟」がこの二つの意味に解釈しうるのか?
この問いの趣旨は、にわかには理解しにくいはずだ。
考えようとしているのは、ある場面で口にされたある言葉が、まったく反対の意味に解釈しうるのはどういう場合か、だ。
例えば若者言葉としては「やばい」は否定的にも肯定的にも使われる。「あいつ〈やばい〉よ」と言った時、相手を賞賛しているのかディスっているのかはこれだけではわからない。「そりゃ〈おかしい〉な」は「笑える」にも「変だ」にも受け取れる。また「いいよ」という台詞は、文脈次第で「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にも、「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にもなる。「すごいね」が称讃なのか皮肉なのか、表面上は同じ形をしていてわからない。
だが一方でこれらは多くの場合、文脈や口調によって、その区別ができるようになってもいる。
それなのに、「覚悟」はある文脈で、ある口調で発せられた言葉であるにもかかわらず、なぜ正反対のどちらの意味にも解釈できてしまう、というのだ。
真に驚くべきなのは、この言葉がどのような精妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが可能になるように設定されているか、だ。ここで考察に値するのはこの点だ。
「私」は確かに「お嬢さんを諦める覚悟」はあるか? とKに問うている。にもかかわらず、それに答えたKの「覚悟」が「お嬢さんに進んでいく覚悟」かもしれないと、なぜ問いかけた当の「私」が考えることができるのか?
まず「覚悟」が置かれた文脈を確認しよう。
Kの口にした「覚悟」は次の「私」の台詞を受けている。
「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
気になるのは「それ」という指示語だ。「それ」という指示語に何を代入するかによって、「覚悟」は二つの正反対の意味になるのではないか?
結果から逆算すると「恋」「道」という二つの候補を代入すると、それぞれ①②の意味になる。
だがこれは無理だ。なぜか?
この文脈で「それ」に「私」が「道」を代入することができると考える必然性がないからだ。正確に言うなら、「私」が、この「それ」に、Kが「道」を代入したかも知れない-つまり「心から道を棄てる覚悟がなければ」と「私」が言ったとKが受け取ったかも知れない-と考える必然性がないからだ(こみいった論理で、これを追うのは難しい! 授業でこれを果敢に挙手して発言したA組N君を讃えたい)。
ではどう考えるか?
こう考えてみる。
「心でそれをやめる(覚悟)」を次のように言い換えたとき、空欄に、適切な動詞を入れ、それが「諦める」と「進む」のどちらにも言い換えられることを説明する。
ことをやめる「覚悟」
もともとこの「やめる」は「もうその話はやめよう」というKの言葉を受けている。したがって「それ」とは「話」だ。「口先で話をやめるのではなく、心で話をやめる」の言い換えとして可能な動詞を考える。
空欄に入る動詞として思いつくのは考える、悩む、迷うの三つだ。
これらの動詞を挿入して、それが正反対の意味に分岐する論理を説明してみよう。
「考えることをやめる」ではどうか。考える対象を頭から消し去る=「お嬢さんのことを諦める」こと(①)だという解釈の一方で、「考える」ことをやめて「行動に移す」こと(②)だという解釈もできる。
「悩むことをやめる」ではどうか。「悩むのをやめる」ためには、悩みの種である①お嬢さんを諦めてしまう(①)のが一つの方途であり、悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに進む(②)のが、もう一つの方途だ。
「迷うことをやめる」ではどうか。Kにとってお嬢さんを「諦める」(①)、お嬢さんに「進む」(②)、選択肢のどちらを選ぼうとも、「迷うことをやめ」ているのだ。
このように、Kの言う「覚悟」は「私」にとっては、正反対のどちらの解釈も可能なのだ。
それを可能にする実に精妙な表現が、明らかに漱石によって意図的に設定されていることに、あらためて驚かされる。
「覚悟」が二つの解釈を可能にしていることはわかった。だがそれだけでなく、現在のところ出所不明な「自殺」説を含めて、意味合いとしては三つの解釈が可能な文脈が設定されていることになる。
で、結局どれなのか?
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