「精神的に向上心のないものはばかだ」が「私」とKとでどう違って捉えられるか?
あれこれ表現を工夫してみるのが有益な国語的訓練ではある。
だが授業者のアイデアも提示したい(我ながらナイスなアイデアだったので)。
この、「私」にとっての「意味」とKにとっての「意味」の違いはこんなふうに言える。
つまり「精神的に向上心のないものはばかだ」は「私」にとって「仮定条件」のようなものであり、Kにとっては「確定条件」のようなものだ…。
どういう意味か?
「仮定条件/確定条件」といえば古典文法だ。
接続助詞「ば」は、接続する活用語が未然形のときは「仮定条件」を表わし、已然形の時は「確定条件」を表わす。
それぞれにお約束の口語訳がある。この訳文がちょうど「私」とKの認識の違いを表現するのにちょうど良い。
「私」の言った「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という台詞は、構造的に「精神的に向上心のないもの」と「ばか」が、相互に仮定として置かれているのだと言える。もし「精神的に向上心のないもの」だとするなら、その者は「ばかだ」、あるいは、もしその者が「ばかだ」とすると彼は「精神的に向上心のない」者だ、というように。
つまりどちらか片方の結論を覆したければもう一方の仮定を棄てればいい、という選択の岐路に相手を立たせたうえで、「平生の主張」をたてにして「これまで積み上げた過去」の方向に誘導することを意図しているのだ。「精神的に向上心のない」「ばか」であることを認めたくないならば恋愛を諦めればいい。恋愛を諦めることが「苦しい」としても、少なくともその場合「精神的に向上心のあるもの」として自らの立ち位置は保てる。
一方Kにとっての苦悩は「選択」の苦悩ではない。Kは既に自らを「精神的に向上心のないもの」=「ばか」=「弱い」と見なしているのだ。
つまり二人にとって「精神的に向上心のないものはばかだ」は次のようにその意味を変えるのだ。
- 私…「もし向上心がないのならば、そいつはばかだ」〈仮定条件〉
- K…「向上心がないのだから、君はばかだ」〈確定条件〉
「私」が仮定として語るテーゼは一般論だが、Kにはそれが自分自身の現状を指摘したものであるかのように響く。
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