2024年11月18日月曜日

舞姫 15 心理分析

 エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。

 8章で、カイゼルホオフに赴く豊太郎の身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。

「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「、かく衣を改めたまふを見れば、何となく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。」

「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」

 ここでは豊太郎とエリスの心理を分析しよう(小学生の時以来、授業でやってきた「この時の二人の気持ちを考えてみよう」だ)。


 まずエリス。

 エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。

A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」

   少し容を改めて

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」

   また少し考へて

C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」

 比較的分析が容易であることもあって、促せば賑やかにあれこれ喋り合っているのは結構なことだ。喋りながらエリスの心情に迫っていけばいい。

 ただ、毎度言っているように、説明のためには抽象化が必要だ。エリスの科白そのままではなく、何らかの語句をそれぞれにあてたい。

A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う

B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる

C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する

 「誇らしく」「不安に」「牽制」などという言葉を想起することが「説明」のためには必要だ。

 また、三つの科白のつなぎのト書きについては、Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。


 さて、もう少々の考察。

 AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう。

 Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。

 この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?


 ここでも「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。

 Aに寄せてみよう。

 A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ。行けないのは体調が悪いから、もしくはそれなりに見栄えのする服がないからであって、それが乗り越えられるなら「行きたい」、つまり「行ける」のだ。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。

 Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。

 つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。

 上で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機にあるのは何か?


 豊太郎の「不興なる面持ち」だ。


2024年11月12日火曜日

舞姫 14 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙だ。

 母の手紙の内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているのは、むしろ読者に内容を考えろと言っているのも同然だ。

 何が書いてあったか?


 まず確認しておかなければならないのは、母の手紙が、その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたという記述だ。

 これは何を意味するか?


 この問いに、直ちにあれこれと解釈したことを答えてしまう人が多かったが、段階を追ってまず明らかなことを共有しよう。

 ここから解釈できる事実は、母の手紙が死の直前に書かれたということだ。

 母が手紙を書いた直後に不慮の事故に遭った可能性がないとは言えない。が、不慮の死であったというのは「わざわざ書かれるべき特別な事由」だろうから、母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたと考える方が自然だ。つまりこれは遺書なのだ。

 それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えるのが整合的か?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だろう。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 さてこの問題には、もう一つの解釈の可能性がある。

 最初からその発想はみんなの脳裡に浮かんでいたに違いないが、そうでなければ誘導するのは簡単だ。

 遺書と言えばどのような死因が連想されるか?

 そう、自死の可能性だ。


 当然、動機は何かが問題になる。ここで、本文に情報のない動機を想定するのは不適切だろうから、既に読者にも与えられている情報からならは、豊太郎の免官しか考えられない。

 しかしこう考えることには問題もある。

 何か?


 母は豊太郎の免官を知っていたか、という問題だ。

 手紙が届いたのは、ドイツで豊太郎が免官の宣告を受けてから一週間のうちだ。

 当時は電話も航空便もない。船便による郵便は日独間で1ヶ月ほどかかったという。とすると母親の死は、豊太郎の免官より3週間ほど前のことではないのか?

 母親は息子の免官を知らず、したがってその死は病死としか考えられないのではないか?


 だがそう即断する前に検討すべきなのは以下の記述だ。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」が文書の船便によるものだとするとに、それぞれ1ヶ月ほどの時間が経過しているのだ。

 事態の推移を、その想定にしたがって並べてみよう。

 ドイツにいる留学生からの讒言によって、日本にいる官長が豊太郎の免官を決定する。それが官報に載り、母親が知る(後の章で相沢が豊太郎の免官を官報で知った、とある)。

 そして自死。

 免官の決定がドイツ公使館に伝えられるのに1ヶ月、それを追うようにして母の死の知らせがドイツに伝えられる…。

 可能なのだ。


 ただ、電信は実用されていた。このころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電信を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在の電話やインターネット通信のように誰もが気軽に使えるわけではない。一留学生の罷免が、電信を使う必要性があるほど急を要する重要事項なのかどうかがさだかではない。

 免官の知らせが電信によるものであるとすると、母が免官を知って自死をしたことがこの時点で手紙で知らされることはありえない。となれば先の想定どおり病死であり、手紙には息子への期待や励ましなどが書かれていたのだろう。

 だがそれが、母や親類の手紙と同じく、文書による通知であったとすると、母は免官を知って自死を選んだという想定が可能になり、その場合は息子に対する落胆や憤慨が書かれていたのだと考えられる。


 授業では「諫死」という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって相手に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待していた息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられる。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの交際に胸をときめかせて暢気に日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


2024年11月11日月曜日

舞姫 13 エリスの戦い

 この場面を解釈するうえで、エリスの振る舞いが演技である可能性について検討されているような声があちこちで聞こえた。

 どうなんだろう? 一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのだろう?

 エリスは清純なのかあざといのか?

 敢えてどちらかというと、と挙手させてみると「あざとい」説が優勢だ。だが逆張りして清純説を推す人ももちろんいる。

 「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写だ。

彼は物語りするうちに、覚えず我が肩に寄りしが、この時ふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。

彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

 1は豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写。この「覚えず」というのは本当か?

 2はエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う科白の後に続く描写。この目遣いの効果について本人は自覚的なのか?

 どちらと答えるによせ、実は決定する根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。

 だが2では作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。読者はエリスの自覚に注意を促される。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?


 この場面について、かつて本校にいたM教諭による興味深い解釈を紹介する。

 考える緒は1の解釈だ。

 この一節を、それほど解釈に時間をかけていない読者が読んでも、特にひっかりを感じないが、前項のような考察を経て読むと、明らかに読み方が変わるはずだ。

 その点に注意を促すのは次の問い。

 「我がそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?


 「恥じて」とあるから、自然に受け取れば、見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたということだと受け取れる。あるいは「ここは往来なるに」からすれば、外で泣いていたことに、初めて気づいたのから、とも言える。

 そう考えることは否定できないし、読者にはまずそのようにしか読めない。

 だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。

 エリスの反応を引き出したのは何か?


 「君が家に送りいかん」だ。

 これは、前項の解釈を経ずに読んだ読者には特別な意味をもたない。

 だが、この場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている「家」を飛び出してきたからなのだ。

 家を飛び出してきたエリスには、といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「我が肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。

 だがその時、「家に送って行こう」と言われる。逃げ出してきた、そこに。

 その時、エリスの脳裡にはどのような思考・感情が奔ったか?


 エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。

 だがエリスは家の送られることを拒むわけではなく、むしろ「足早に」豊太郎を家に連れて行く。このエリスの足取りの言及に意味を持たせるとするならば、それは事情を知らない豊太郎が書いているように、他人に見られないように急いでいるのだということではなく、予定の「客」が到着するより先に、という意味だと考えられる。

 エリスは豊太郎にすがることを決めたのだ。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。

 家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?

 もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」だ。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのだ。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。

 豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋だ。

 母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げる。

 エリスの科白を分析しよう。

 まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。

 そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしや我が身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。

 なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのだ。

 こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。

 このように考えると、2の「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」は1に比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。

 エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。


 だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。

 そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。


 以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かだ。

 そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのだ。

2024年11月10日日曜日

舞姫 12 出会いの場面の真相

 エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?

 その「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。

 「体を売る」のは、具体的には、いつどこでか?


 上の問いに対する答えを念頭に置いてA「衣服」、B「母親の態度」、C「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。


 答えは「今晩、エリスの家で」だ。

 「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。それは明日や明後日のことではない。この後、これからの予定だったのだ。

 そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。

 場面は、豊太郎の仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」だ。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。

 「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Aのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。

 では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?


 現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。

 だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。

 例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。

 あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。

 もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。

 そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?

 その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。

 こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。


 では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?

 それこそがBの室内の描写だ。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。

 そこにはベッドの存在が明示され、その傍らにエリスは恥ずかしそうに立っている、と描写される。

 「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をBの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった(最初から、問題は「部屋」だという指摘をした人がいたクラスもあったが、曖昧にぼかして過ごした)。

 これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいる。

 a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。

 クロスワードパズルやナンクロ(数独)では、どこかが決まらないと他の空欄が決まっていかない。だからどこかの選択肢を特定すべきなのだ。

 ここで最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」だ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定される。

 室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。


 では「価高き花束」の出所については?

 花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。

 だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。

 それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。

 そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。

 お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。

 それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。


 さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者が多かったのは奇妙だった。

 de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。

 だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。

 つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。

 だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。

 「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。

 D「母親の態度」がそれを示している。

 母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。

 それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。

 母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからだ。

 だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。

 当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。


 一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。

 一つ目は父親の遺体の存在だ。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎える、そしてその準備は母親がしているのだ、などと考えることができるか?

 これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた。もっともな感想だ。

 だが、だから場所の解釈を変えるべきだということにはならない。室内の描写の意味はそれ以外の解釈を思いつかないかぎり、それを意味していると考えるべきなのだ。そこを根拠としてまず「エリスの家で」説、つまりこの家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーが解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。

 そう考えたうえで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。


 そうした心理的抵抗とともに、もう一つ、この想定の難点はある。

 この想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!

 この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。

 だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。

 だから、この場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をした、この母親の恐るべき変わり身に驚くべきなのだ。

 この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。


 「外にいた」のは、なるほど母親と言い争いでもして家を飛び出したからなのだが、それはいつかくる「恥なき人とならむ」状況へと娘を追いやる母と言い争って外にとび出したというだけでなく、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきたのだ。

 つまり最初の選択肢ではaが最も近いが、「母から逃げて」というよりは「家から逃げて」とでも言うべきだろう。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。

 そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。


 さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?


舞姫 11 問題の整理

 この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。

 時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。

 主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像する。


 いくつかのストーリーの類型を提示した。

○なぜ外にいたか?

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 上記のような想定の相違には、以下のような前提の相違がある。


○「身体を売る」相手

  • シヤウムベルヒ
  • 特定の誰か
  • 不特定の誰か

○場所の意味

  • 教会の前
  • 家の前

 少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。

 例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?

 「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。

 この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。


 さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。

A.エリスの衣服への言及

B.母親の態度

C.花束(室内)の描写

 これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定しているストーリーを明らかにする。

 どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?


 主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?

 議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張したストーリーに支持が集まっていく。

 相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオだ。

 家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。

 一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。

 このシナリオには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。


舞姫 10 考慮すべき情報

 路上で泣いているエリスに主人公が出会う場面は、どのようなストーリーの、どのような時点か? 出会う時点までにどのような出来事があり、この後、どのような展開になる予定だったのか?

 ストーリーの背後にある想定のバリエーションを分岐する選択肢の形で提示した。それらの組み合わせによって、ありそうなストーリーはさらにいくつにも分岐する。

 その中でどれを選ぶか、どのような読解が適切なのか、鷗外はどのようなストーリーを想定しているか、といった判断は、本文との整合性に拠る。本文にそうした情報が提示されていなければ、そもそもこうした考察は埒のない二次創作でしかない。

 本文の記述は、どのストーリーと不整合であり、どのストーリーを支持しているか?


 本文において考慮すべき記述はそれぞれ、考慮すべきだというサインを読者に送っている。以下の記述がそうした「有意味な」記述なのだが、それらは一体どうしてそうだと見なせるのか?

A (エリスの)着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

B エリス帰りぬと答ふる間もなく~詫びて、余を迎え入れつ。

C 陶瓶にはここに似合わしからぬ価高き花束を生けたり。

 小説の中に書かれていることには必ず意味がある、というのは小説読解にとっての大前提だ。人工的に創造される虚構は、作者がそう書かなければ存在しない。全ての断片は、書かれる意味がなければ書かれない。

 Aのエリスの服装についての描写は単に、豊太郎及び読者に、エリスに対する好印象を抱かせる目的で言及されているだけかもしれない。

 だが一方でこの言及もまた、ここでのストーリーを構成する断片かもしれない。それによって支持されるのはどのようなストーリーか?


 Bの母親の態度が豹変したのは、この東洋人から資金的援助が得られるというエリスの主張を受け容れたからだということはわかる。「言い争うごと」き話の内容はエリスによる説得だろう。

 だが最初にドアを「あららかに」開け、「待ち兼ねしごとく」「激しく」閉め、豊太郎を閉め出したのはなぜか?

 この記述はどのようなストーリーを支持しているか?


 Cの描写の中で、とりわけ注意を引くのは花束の存在だ。

 花束だけならば、その前のテーブルクロスや書物などとともに、豊太郎の目に映る室内描写の一つとして看過できたかもしれない。だが「ここに似合わしからぬ価高き」という形容は、この花束の存在について、意識的な解釈を読者に要求している。これを無視することはできない。

 この花束はなぜここに置かれているのか?


 死者に手向ける花ではないかという可能性に思い至る者もいる。だがそうではない。

 ここでは部屋の構造を確認しておこう。父親の遺体が寝かされているのは、入って正面の一室。一方、花束の置かれているのは、左手の竈( かまど ) のそばの戸を入った一室。それぞれ別の部屋だ。

 花束を死者に手向けられたものであると解釈させるには、別の部屋にすることの必然性がわからない。したがって、これは死者に手向けられたものではなく、「体を売る」という状況と結びつけて考えるしかない。

 そして、その出所を問うならば、エリス家が用意したか、誰かから贈られたか、しかない。

 エリス家が用意したものだとすると、それによってストーリーは限定される。それはどのように帰結するか?

 一方、贈られたものだとすると、それは体を売ることになる相手から贈られたものであることを示しているのだと考えるしかない。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるには、まだ明らかになっていない道筋がある。


2024年10月28日月曜日

舞姫 9 なぜ「そこ」にいたか

 4,5,6章と読み進めることで、登場時のエリスの置かれた状況について、ある程度推測することができた。

 だがまだこれで考察は終わりではない。

  • エリスはなぜその時そこで泣いていたか?

 この問いは二つの問いを含んでいる、と言うとみんなすばやく反応してくれて頼もしい。ちゃんと「山月記」のことを覚えている。

 何か?

  • エリスはなぜ泣いていたか?
  • なぜ「そこ」にいたのか?

 「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。そして推論の手間はかなり差がある。

 「なぜ泣いていたか」、すなわち「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの詳しさの「事情」で、「その時そこにいた」のはさらに細かい「状況」だ。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。

 だがそんなことが可能なのか?

 また、そんな考察が必要なのか?


 この考察は「こころ」における、上野公園の散歩の夜のエピソードの意味の考察に似ている。

 夜、眠っているとKが襖を開けて声をかけてくる。目覚めた「私」はぼんやりしたまま受け答えをするが、翌日になってなんだったのか気になる。

 この考察では、物語に書かれていない、その場面の前の時間に、語り手以外の登場人物が何をしていたか、という想像が必要だった。読者の目の前で展開するのは(つまり小説に書かれているのは)語り手がその場面に至った後からだ。だが他の登場人物たちは、その場面の前にも生きて、何事かをしていたかも知れない。もちろん虚構の造形物だから、書かれていない時間は存在していないかも知れない。が、作者がそれを考えている場合には、それも含んだ上で、読者は小説全体を解釈しなければならない。

 授業ではここから「遺書」にまつわる重要な解釈を導き出したのだが、そのことは、いくつものヒントを突き合わせて解釈することによって初めて読者に明らかになるのだった。

 つまり小説本文に書いていない事情や状況を推測する必要があるのは、小説中にそうした情報を作者が意図的に置いているとみなせる時であり、同時にそうした情報(もちろんそれと一般常識)からしか推測はできない。

 ではエリスはこの場面の前にどのような時間を過ごしていたのか?

 そのことは、文中のどこから読み取れるのか?


 この場面の解釈には、潜在的にいくつかの解釈の分岐の可能性があるが、注意深く議論をしないとその違いが曖昧なまま看過されてしまって、二人で勝手な想像を拡げていって、なんとなくお互いにわかった気になってしまっているかもしれない。


 例えば「そこ」とはどこか?

 端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」とある。書いてある通りに言えば。

 だが実はここにはもう一つの解釈の可能性が分岐している。

 この教会はどこにあるか?

 エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのだ。とすると、単に「そこ」は「家の前」なのだ。

 だがそのことは、次の章でエリスの家に送っていくことにならなければわからない。だから「そこ」について考えようとすると、なぜ教会の門の前にいたのか、と問題を設定してしまう。だが「なぜ教会の前にいたのか?」と考えることと「なぜ家の前にいたのか?」と考えることは違ったストーリー、違った状況設定へと解釈を導く。

 二つの可能性について検討しなければならない。


 さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?

 授業では、可能性のあるアイデアをいくつか提示した。

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 これらは必ずしも排他的ではない。aでもbでもありうる。だが、aであるがbではないような事情も想定できる(逆も)。

 これら諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。

 たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。

 さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。

 deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。


 二つの分岐する可能性は、組み合わせを考えつつ考察を進めたい。

 例えばbはさらに「教会に助けを求めた」のか「教会の前で誰かに助けを求めた」のかに分岐する。選択肢が5択である必要はない。扉が閉ざされていたことに意味を見出すならば、教会に「助けを求め」たのだと考えられる。助けを求めたが扉が閉まっていたからそこで泣いていたのだ。「誰かに」だとしても、それが「教会の前」であるか「家の前」であるかはどう考えるのが適切か、検討に値する。

 またdeは「家の前」だと言っていることになる。

 aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。


 最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけていたはずだ。

 だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていた。

 だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いている設定と、相手の語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。

 上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?


 ストーリーの想定は、その背後に、さらなる想定の相違の可能性を秘めている。

 たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?

 これは必ずしも一致していないはずだ。

 さしあたって解釈の可能性は次の三つ。

 まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐する。

 これら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。

 世に出回っている「舞姫」解説書では、三つとも目にすることができる。

 たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。別の解説書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある(ご丁寧に教会の前で客引きをするという文化があることが紹介されたりもする)。

 寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。

 これらはどれも両論併記ではなく、その一つのみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。

 自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。

 そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。

 ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。


 まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。




舞姫 8 エリスとの出会い

 「4章」で、ようやくヒロインたる「舞姫」=エリスが登場する。

 この、語り手=豊太郎とエリスの出会いの場面について考察する。

 掲げるのは次の問い。

  • エリスはなぜその時そこで泣いていたか?

 この場面でエリスの置かれた状況を的確に捉えることは、この後のエリスと豊太郎の関係を捉える上で重要であるばかりか、それ自体、考察することに手応えのある問題でもある。


 全体14章分割では、エリスとの出会いのシークエンスを4章5章と二つに分けている。両章の3文要約を続けて行い、いったん上記の問いについて考察する。

 二つの章からわかることもある。だがこの問いに答えるには、次の6章まで読み進めないと、推測するために十分な情報が得られない。

 国語の授業に求められているのは、結果的に文章の内容を理解することではなく、何事かを考察したり議論したりすること自体だ。重要なことはどのような手がかりを元に推論するか、だ。

 まず4章から、父親が死んだこと、エリスの家庭が貧しく葬儀さえ出せないでいることはただちにわかる。

 だがわからないこともある。「彼のごとく酷くはあらじ」というのが何のことかは、4章ではわからない。

 だがこれは5章でいくらかわかる。「彼」とは座頭のシャウムベルヒであり、経済的援助を申し込んだところ、弱みにつけ込んで「身勝手なる言ひ掛け」をしたとある。さらに4章の「彼のごとく酷くはあらじ。また我が母のごとく」「母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。」から、母が座頭と結託してエリスにそれを強いていることがわかる。「言い掛け」は「酷」いものなのだ。

 だがまだこれだけでは「酷い」「言い掛け」の中身がわからない。さらに4章のある言葉の意味もまだ、4,5章だけではわからない。

 「言い掛け」は、語註では「言いがかり」となっているが、現代語の「言いがかり」のニュアンスは誤解を生じさせそうなので「要求・提案」と訳しておく。


 さて、5章の「身勝手なる言い掛け」とともに4章でわからないまま保留になっているのは「恥なき人とならん」の中身だ。つまりシヤウムベルヒの「身勝手なる言い掛け」とは、エリスが「恥なき人とな」ってしまうような「酷い」ものなのだ。

 それが何かを推測するには6章の次の一節を待たねばならない。

6章

はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞ言ふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。

 ここではまず「賤しき限りなる業」の内容を推測しなければならない。が、それは難しくはない。

 つまり舞姫の収入はそれほど高いものではないから、その多くは身体を売って生活していたということなのだ。

 だがエリスは、父親に守られて、これまでそれをせずにいた。だがその父親が亡くなった。

 これでシヤウムベルヒの「言い掛け」が何のことかわかる。エリスに、お前も体を売れという要求・提案なのだ。それを受け入れることは「恥なき人とな」ることだ。

 さらに母親がシヤウムベルヒと結託し、嫌がる娘を殴る。酷い話だ。ヒロインはこのように追い詰められた状況で物語に登場する。

 このように、4章、5章と読みつつ問うが、結局6章まで読まないと十分な手がかりが揃わない。三つ全てを総合して初めてこのような推論が可能になる。重要なのは結論ではなく推論の過程だ。


 これで「なぜ泣いていたか」が一応は説明できた。

 だがこの問題はこれで終わりではない。


2024年10月20日日曜日

舞姫 7 執筆の契機

 冒頭の「石炭は積み終わった」が「日記を書きたい/書けない→書こう」に決着する論理を構築する。

 この経路は二つ想定できる。冒頭の一文は二重の意味で1章の決着に必然性を与えている。


 まずは演繹的に、つまり前方から論理を発展させてみる。

  • 船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった

 ↓

  • 出航間近

 「間近」とはいつのことか?

 ↓

  • 明朝

 なぜそう考えられるか?

 「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。

 ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな陸(おか)で過ごすのが習いなのだ。だから船客だけでなく最小限の船員を除く乗員のほとんどが下船しているということなのだ。

 だから何だというのか?

 ↓

  • 今夜は一人きり

 それまではトランプ仲間が毎晩語り手を訪ねてくる。それが今晩はない。つまり燃料の積み込み終了は「舟に残れるは余一人のみ」であるという状況を必然的に作り出しているのだ。

 さらに、一人だから何だというのか?


 日記を書くことによって、深い「悔恨」を消したい。だが筆は進まない。そこに毎晩トランプ仲間が訪ねてくる。となれば、書けないことに対する言い訳ができてしまう。

 だが今晩のこの状況は、そうした言い訳を自らに許さない。

 書き出すしかない。


 さて、もう一方の経路を辿ってみよう。

 上記の通り、日記を書き出せずにいる。具体的には「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。

 とすると?


 場所と移動経路を確認する。

 この港はどこにあるか?

  • セイゴン

 どこの国か?

  • ベトナム

 脚註にある。では最初の出航地はどこか?

  • ブリンヂイシイ

 同じくこれはイタリアだと註にある。

 そもそもどこから旅立ったのか?

  • ドイツ

 陸路でスイス→イタリアに向かい、そこから船に乗ったと考えられる。

 ここまでにどれほどの日時がかかっているか?

  • 二十日あまり

 どこへ向かうのか?

  • 日本

 つまり、おそらくここが日本に向かう最後の寄港地なのだ。ヨーロッパ―アジアの位置からそう推測するのは自然だし、「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来し頃は」が、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったような印象を与えることも、そうした解釈を支持する。

 この地理関係から何が言えるか?


 つまり、冊子を買ったものの書けないまま二十日以上が経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。

 この文章が、ある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれなければならない。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからだ。

 「明朝には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出すよう促す。


 これで、冒頭にこの一文が置かれていることの必然性が納得できた。

 セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜、という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導している。

 そして語り手が書こうとしている手記とは何か?


 これはメタな問いで、勘の良い人が各クラスにいてくれて助かった。

 そう、この日記こそ、この「舞姫」という小説そのものだ。

 つまりこの冒頭の一文は、この小説がまさに存在を始めるための必然性を与える契機となっているのだ。


2024年10月18日金曜日

舞姫 6 最も重要な内容

 「舞姫」冒頭の一文が指し示しているのは、さしあたり船の燃料の積み込みが終わったということであり、それは「出航が近い」という事態を示している。

 ということは?

 一方、第1章で最終的に読者が把握しなければならない情報は何か、と考える。思考は方向を定めずに展開するばかりではなく、到達点を仮設してその間を架橋するように展開する。

 1章で読者が把握しなければならない最も重要な内容はなにか?


 だが「最も重要」という指定はあまりに曖昧だ。

 さしあたって、語り手がドイツ帰りの船の中にいることと、強い悔恨に悩まされていることは確かに「重要」だ。

 さらに今必要な「重要な内容」を確認するために、1章の段落構成に着目してみよう。

 1章は形式段落で3段落構成であり、その1.2段落は同じ文で終わっている。「そうではない、これには別に理由がある」だ。そして3段落にはそれらと違って、本当の「理由」が書かれている。これら、3段階で語られるのは何の「理由」であり、それは何だと言っているのか?


 日記が書けないでいる「理由」だ。それは心が動かなくなったから(第1段落)でもなく、自分の言うことが当てにならないから(第2段落)でもなく、悔恨が深いから、だ。

 「日記が書けない」ことが1章で読み取るべき最も重要な内容だとして、これを当然その前後に前提と決着を求める。「書く」を活用させてごらん、という言い方でピンときた人が各クラスにいた。

 「書けない」ことが問題になるからにはまず「書きたい」があるはずであり、第1章の終わりは「文に綴りてみん。」だ。つまり「書こう」で終わる。

 「書きたい」理由は何か?


 これは「書けない」理由と表裏一体だ。

 つまり語り手はある「恨み(悔恨)」を消そうとして文章を書こうとしており、かつその「恨み」の深さに筆が進まないのだ。

 そして1章の終わりでとうとう書き出すことを宣言する。

 このことと冒頭の一文の間は、どのように架橋されるか?


舞姫 5 諸説試行

 冒頭の一文の意味は、1章全体の意味から考えるべきであり、それは、ひいては作品全体にとっての1章の意味として考えるべきでもある。そこでまずは2~3章まで読み進めて、1章がどのような位置づけにあるかを把握する。


 こういった把握には広い文脈を捉える読解力が要求される。

 1章の終わりは「いで、その概略を文に綴りてみん。」だ。

 そして2章から始まるのがその「概略」なのだ。それがどこまで続くのかわからないが、ともかくも1章は2章以降に対して、これがある種の「手記(日記)」であることを宣言する、俯瞰する位置に語りの視座にあるといっていい。


 あるいは時間軸で語ってもいい。

 1章はこの手記を語っているいわば「現在」だ。

 試みに、1章は何歳? と訊いてみた。必要な情報を文中から探して数える。「こころ」の、曜日を特定した考察に似ている。

 27歳と推論できれば正解。

 2章で、19歳で大学を卒業して勤め始め、3年経ったとある。22歳だ。そこでドイツ留学を命ぜられる。

 1章で、5年前に日本を発ったとあるから、現在が27歳なのだ(実際の鷗外は26歳で帰国しているが)。

 3章の冒頭にそれから3年と書いてあるから、25歳になっている。差し引き2年前のことだとわかる。その延長で予想すれば、最後まで語られたところで「現在」にたどり着き、その後が1章になるのだ。つまりこの後3章から最後までがその2年間のことが書かれるのだろう。


 さて、1章がそのような位置にある部分であることを把握して、その冒頭におかれた一文の意味を改めて考えてみる。

 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次のような説だ。

  • 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  • 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。

 これらの解説を読んで授業者が思うのは「ふーん」だ。否定するものでもないが、恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を自分で思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出す前に船内を歩き回って作業の終了を「視た」のではない、となぜ言えるのか。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れている。

 2は、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由だ。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なら「夕餉を食べ終えつ」でもいいのか? 

 「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかという疑問はまだ解かれていない。

 

 では冒頭の一文は何を意味しているか?

 さしあたり、出航が近いということだ、と言ってみる。

 ここから「意味」らしきものを説明することはできる。つまり船の出航が物語の始まりを象徴しているのだ。

 これで十分ではないのか?


 だが「船は港を出て、海原に乗り出した」くらいならそれも言えるかもしれないが、まだ燃料の積み込みが終わったところだ。「出航が近い」というのはちょっと大雑把な言い方だ。さらに精確に言わなければ、第1章全体との関係は捉えられない。


2024年10月12日土曜日

舞姫 4 石炭を積み終える

 「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。それが指し示す事態と、この情報が冒頭におかれて果たす機能について考察する。


 複数人で検討すると、まずは「何のことか」についての了解がされるはず。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつく。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。

 さて、何のことか?


 いくつかのクラスでこの段階で「船に乗っているということ」「船が出発するということ」という答が発せられるのでとまどった。そのたび、単に書いてあることから跳ばないで、間を埋めてくれ、と要求した。

 書いてあるのは「石炭は積み終えた」だ。これと「船が出発する」のつながりを明示する。

 すなわち「石炭」とは、蒸気船の燃料のことなのだ。部屋の石炭ストーブの燃料ではなく。その積み込みが終わったということは、船が出航する準備ができたということだ。

 話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではない。確かに情報としてはこの一文では不充分だから、推測によって補う必要がある。


 「石炭をば」の「をば」は、対象を示す格助詞「」と題目を示す係助詞「」が付いたものだ。

 これを単に「石炭」だと考えると、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。

 実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上で、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。

 だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は一乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。

 「をば」は強調だから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭積み終えた」であるとともに「石炭積み終わった」というニュアンスでもある。「は」は主語を表す単なる格助詞ではなく、題目語を提示する係助詞だ。「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭もう積み終わった。」のだ。

 同時に、「船」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船石炭もう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとり」「熾熱灯の光の晴れがましき」と、実は主語が語り手ではない。


 さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分では自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。

 だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。

 もう一つの問い、なぜ冒頭にこの一文が置かれているか? にはどう答えたらいいか。「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと言うのか?


舞姫 3 冒頭の一文

 さて、読み進めながら、そこまでの時点で考察すべき問題について、随時考察をしていく。

 その最初の問題は、「石炭をばはや積み果てつ。」という冒頭の一文だ。

  • この冒頭の一文は何のことを言っているか?
  • なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


 実はこの問いは、もともと生徒から質問されたものだ。問われて初めてこの一文が何を意味しているかについて、自分がまるで考えていなかったことに気づいた。それまでに何度も「舞姫」を読んだことがあったばかりでなく、複数学年で授業をしたことさえあったのに、である。

 といって、まったく意味がわからないと感じるのであればそれはそれで注意を引くから、授業者とてそれなりの「意味」を受け取っていたには違いない。つまりわかっている「つもり」だったのだ。

 冒頭の一文、口語訳は「石炭はもう積み終えた。」くらいにしておく。文末の「た」は過去ではなく完了。

 これがどのような事態を示しているか?


 授業者はこの一文から、船室に石炭ストーブがあって、燃料として各室に割り当てられている石炭をすべてストーブに入れてしまったというような状況をイメージしていた。もちろん「積む」という動詞が「ストーブに入れる」というような意味に解釈できるかどうかは曖昧にしたまま、その解釈を放置していたのだ。

 今となっては馬鹿馬鹿しいこうした解釈をなぜしてしまったのかについては自分なりに分析できる(言い訳だ)。

 2点。

  1. 冒頭の一文で述語となる「積み果てつ」の「積む」という行為の主語が省略されている。無意識にそれを「私」=語り手だと想定してしまった。
  2. 冒頭の一文に続くのは「中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。」という船室の描写。だから「石炭を積み終えた」も、船室の状況を示す何事かであろうと考えた。

 石炭ストーブの燃料をすべてくべてしまったから何だというのか?

 それはつまり、やがてそれが燃え尽きた後の寒さが予感されている、ということなのだろう、というのが漠然とした理解だった。

 だが生徒の問いを前にしてあらためて考えたときに、そうではない、と気づくのは、それでは「意味」が充分にはわからないことが自覚されるからだ。

 解釈とは基本的に文脈において生ずる。

 この「意味」とは、もっと広い「文脈」におけるそれだ。

 問いの「何のことか」と「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」は、この「文脈の中で生ずる意味」についての考察を要求している。「何のことか」についての仮説は「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」まで結びついたときに納得に変わる。「船室の石炭ストーブ」解釈は、その文脈を見出せないことによって挫折する。

 そこで次の二つの問いが必要となる。

  • この冒頭の一文は何のことを言っているか?
  • なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


舞姫 2 要約する

 本文を2頁ほどで区切って章立てし、各章を3文で要約しながら読み進める。

 これはつまり、その2頁ほどの内容から、重要と思われるトピックを三つ選べ、という課題だ。

 小説には様々な要素が混在している。

  1. 状況・事情
  2. 行動・行為
  3. 心理・思考

 実際にはこの三つは絡み合っていて分離できないこともある。ある場面には、登場人物が、ある「思考」をしながら「行動」しているという「状況」が描かれている。

 ともあれそのうちで重要な要素、三つを選んで文にする。

 むろん「三つ」という限定は少ない。だが、とにかく、優先順位の高いトピックを三つ選ぶ。その優先順位を勘案しようとすることが、その該当部分の全体を捉えようという思考になる。だから要約文としての完成度は必ずしも高くなくて良い。言い足りないままでも良い。要約しよう(トピックを選ぼう)という思考に意味がある。


 とはいえ、書き出した3文で、その章の展開が辿れているかどうかをちゃんと自分で自覚しよう。

 しばしば見られるのは、適当に本文の一部をそのまま切り出してしまう、というケースだ。その表現、その文言のままでは3文の繋がりがたどりにくいし、情報量が少なすぎて、3片では章全体の流れを把握することができない、といったような。

 段落、くらいの塊で文章の内容をつかまえて、自分で作文しよう(ちなみに、一橋の要約問題も、基本はこのようにトピックを1文ずつ3~4文で立て、その間を滑らかにつなぐことで200字に収めるように書き下ろす)。


 最も難しいのは最初の章だ。三つのトピックとして何を選ぶかという以前に、まず内容の把握が難しい。物語が動き始めてしまえばずっと楽になるのだが、最初はまず物語の世界設定の把握に難渋する。

 冒頭の2頁、授業での通称1章でいうと、次のような要約はおおよそ上の3領域に対応している。

  1. 私はドイツから日本に向かっている船中にいる。
  2. 日記を書こうとしている。
  3. ある「恨み(悔恨)」に苦しめられている。

 要約に正解はないから、これ以外の内容を含む3文になってもいい。あるいは一文に盛り込む内容が変わることもある。

  1. 私はドイツから日本に向かっている船中でこれ(日記)を書いている。
  2. ある「恨み(悔恨)」のためになかなか書き始められないでいる。
  3. だがその悔恨を消すことこそ執筆の動機である。

 この章の要約は難しい。上のような要約をすらすらと思いつくのは相当な国語力の持ち主だ。


2024年9月11日水曜日

舞姫 1 読み進める

  後期は、今年度最後の授業まで17時限くらいかけて森鷗外の「舞姫」を読む。

 漱石の「こころ」も、同じくらいの時間をかけて読んだ。あの難問群の数々を考察するためには、それだけの時間が必要だったのだ。そうした考察を積み重ねて、最後に見えてきた光景が、最初の時とはどれほど違ったものになったか、みんな覚えていると思う。

 「舞姫」もまた、考えれば考えるほどに、同様の問題が発見される濃密なテキストだ。

 だが授業の進め方は「こころ」とは些か異なる。授業前に全文通読を指示した「こころ」と違って、「舞姫」は授業中に全文に目を通す。

 ほぼ現在の口語と変わらない「こころ」と違って、それより四半世紀近く前に書かれた「舞姫」は、擬古文と呼ばれる文語で書かれている。

 当時、言文一致運動は試行の直中にあり、鷗外もまた言文一致=口語による文章も書いていたが、「舞姫」は試行中の口語ではなく、歴史ある文語で書かれている。仮名遣いこそ現代仮名遣いにあらためたものが教科書に載っているのだが、この長さの文語文をすらすらと読み進めて内容を把握するのは、正直キツいはずだ。

 そこで、授業中に全文を通読する。

 といって、細かい意味を解読していくとなると、ほとんど古文の授業のようになってしまいかねない。文語文法に正確に則って書かれた「舞姫」は、助動詞や現古異義語、禁止の副詞や係り結びの逆接用法など、むしろ古文の学習教材として恰好な素材とさえ言ってもいい(一橋の大問2の近代文読解の練習にもなる)。

 だがそれには「舞姫」は長すぎる。ここはあくまで小説読解の教材として「舞姫」を扱いたい。授業者による解説を最小限にしつつ、できるだけ早く内容把握を促し、考察したい問題に焦点を絞りたい。

 そこで、次のような手順で本文を読み進める。

  1. 予め授業者の方で「舞姫」全体を14の章に分割しておく。各章は、内容的に切りのいい、2頁程度の長さ。
  2. 口語訳の朗読音源を聴かせる。みんなは朗読を聴きながら本文を目で追って、文語と口語を対応させる。
  3. 1章分2頁程度の口語訳を聴き終えたら、その章の内容を3文の箇条書きで要約する。

 3の要約は、なるべく簡潔な、単文で表現する。「単文」というのは、主語述語の組合わせが一つだけの文のことだ。主語述語に、必要な形容や目的語などを加えて、5文節くらいにまとめる。ノートで1行くらいの長さが見当だ。

 これを三つ、各章を3文で要約する。


 要約文は、頭の中で考えているだけでなく必ず書く。ノートには充分な余白を設けて、後から書き込みができるようにしても、最終的にノート2頁以内で「舞姫」全文を要約することになる。


 1章につき、このサイクルを15分程度で繰り返すと、1時限で3回、7~8頁読み進めることになる。それでも「舞姫」を読み終えるのに、4~5時限程度を要する。


 だが、全文を通読してから読解するのではなく、読み進めながら、その時点で考えるべきことを考えていく。例によって「部分的な読解」だ。

 いくつかの場面でこうした読解/考察をはさんでいくと、最終的に全編を読み終えるまでに10時限くらいかかる。


 それから「舞姫」という小説全体を考察する。

 読解には、3年間やってきた「読み比べ」の方法を使う。

 比べるのは「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」。

 それぞれの小説との読み比べることで、「舞姫」はその都度その姿を変える(スキーマが変わればゲシュタルトは変わる)。


 授業で読み進めている部分より先を自主的に読み進めるのは、むろんかまわない。

 むしろ、授業時に口語訳を聴くときに初めて本文を見るのでは勿体ない。先に自分で原文を読んでおいた方が学習になるのはもちろんだ。なるべく速度を上げて文語文に目を通し、かつ的確に意味を把握する訓練は、古文の学習としても有効だ。多いほど良い。

 そこで、せめて各授業の前の休み時間には、授業で読んだところの続きに目を通しておく習慣を作ってほしい。

 5分でいい。その姿勢が、授業の学習効果を高める。


 ずっしりと手応えのあるこの文学史上に残る記念碑的作品を、長い時間をかけて読み進めていった先に、今度はどんな光景がひろがるか。

 みんなでそこまで辿り着きたい。


2024年7月13日土曜日

博士の愛した数式 5

 ルートは、自らの怒りの訳を「ママが博士を信用しなかった…ことが許せないんだ。」と語る。だがルート自身は博士を信用しているのだろうか。そもそも博士は実際に信用に足る人物なのだろうか。

 とてもそうだとは言えない。ルートの負傷にあたって、博士は「動揺」し「混乱」し、まるで役に立たない。「私」の判断で病院に連れて行く段になってようやく大人の男としての力を発揮するが、総じて「任せる」には不安な人物に違いあるまい。

 むろんそのことをルートもまた痛いほど感じているはずだ。病院に運ばれることになる怪我の際も「ルートは一人で事を収めようとし」ている。

 父親としての博士におぶわれて感ずる安らぎが本当には安定した確固たるものではないことことに気づかざるを得ないほどに、ルートは怜悧だ。ルートの苛立ちは、母親の博士への疑念自体に向けられているのではなく、むしろ母親が懸念した博士への不安が現実となってしまったことによって生じているのだ。

 とすれば、それを現実にさせたのは自らの過失だ。したがって、本当に責めるべきなのは自らであることに、ルートは気づいている。

 この「怒り」が、単に母親を「許せない」と思っているだけではなく、自分にも向けられているのだと読み取ることは決定的に重要だ。

 ルートに自傷的な振る舞いをさせるのはいわば自責の念だ。「不機嫌」の、「怒り」の正体が自らの責任の追及から発している以上、それは単純に母親を責めることにならない。

 だからルートは黙って涙を流す。愛すべき博士の名誉を守れなかった自らの無力に泣くのは、その責任を引き受けようとする矜恃の裏返しだ。「罪の意識」を感ずるのは「罪」を自らの責任として引き受けようとする気概だ。ようやく怒りの理由を口にする時「ルートは私を見据え、泣いているとは思えない落ち着いた口調で言」う。言葉こそ母親を責めているが、そうした母親の懸念を否定することで、自らの責任を引き受けようとするルートは一人の「男」なのだ。

 この「罪の意識」が強い感情として表出するのは、前段における博士への親愛の情の故だ。

 だが前段の「運動靴はプラプラ揺れていた」が、先に述べたように、ルートが子供という立場に身を任せる心地よさを表しているように、本当はルートは子供でいたいとも思っている。そしてルートが子供でいるためには、博士が擬似的な父親として信用に足る人物でなければならず、そのためには、ルートが自立できなければならない。

 つまりルートは、言ってみれば、子供でいるために大人にならなければならないという、奇妙な背理のうちに置かれている。

 それこそ、ここでルートが置かれている混乱である。


 博士の名誉を守ろうと母親を非難し、同時に名誉を守ることができなかった自らの非力を嘆くルートは、「こども」という安楽に甘んずることを望むがゆえに、それを守る力を求めてそこから一歩を踏み出そうとする「男」だ。

 ここに描かれているのは、母親に苛立ち、母親を非難する息子と、それに突き放される母親の断絶ではない。ここには、有り体に言えばルートの「成長」という事態が描かれている。自分への非難の中に息子の成長を見て取る母親の歓喜が描かれている。

 そう考えるからこそ、このシークエンスはまぎれもなくハッピーエンドなのである。


 この小説は本屋大賞の多くの受賞作品と同じく、実写映画化されている。

 文章の読み比べは、以前から授業のメソッドとして重要視しているのだが、評論の読み比べに限らず、「羅生門」における「今昔物語」などの原典との読み比べ、マンガ化されたものがあればそれとの比較、あるいは映像作品との比較など、複数のテクストを比較するのは、常に有用な読解学習の機会となる。

 だがそれは、一方が他方の理解を助けることが期待されるからではない。そもそも国語科学習とは、教材の「理解」を最終目的としてはいない。国語科学習における教材文の「理解」とは、あくまで「理解」を仮の目標としておくことで、学習の導因、インセンティブとなることが期待されるという、当面の「仮の目標」だ。学習自体は、読解行為・考察そのものにあるのであり、読み比べはそのための糸口だ。

 そして思考とは常に比較だ。情報が「差異」でしかない以上、情報の発生は比較によってしか起こらない。思考は差異線をなぞるようにして展開する。


 だが結論を言えば、小泉堯史監督による映画版は、期待したような考察を可能にしてはくれなかった。

 原作の、母親が外出しているうちにルートがナイフで指を切ってひどく出血し、病院に行くという顛末が、映画では草野球の練習の最中に他の選手とぶつかって転倒して頭を打って病院に運ばれるという設定になっている。展開が違っているから、映画を見ていると最初のうちは、このシークエンスが問題のエピソードだとは気づかない。だが病院の待合室でルートの治療を待っている場面辺りで、もしやそうなのかと思っていると、結局そうなのだ。

 わけがわからない。どういうわけでこういう改変をするのか。映画の尺の問題で短縮する必要があるのなら、エピソードごと切ってしまえばいい。後の展開に必須のエピソードではない。

 ルートの怪我の原因について、博士が自分に責任があると思い、なおかつその事態を博士が自分で収拾できずに混乱に陥るというのが、このエピソードの必須要件だ。だが映画ではそれがまるで描かれない。その混乱の中でこそ、三角数は語られる必要がある。そこにある秩序が小説の言葉で「崇高」と語られるのは、博士の混乱との対比があるからだ。

 だが映画では、博士は落ち着き払って、不安げに待つ母親に、数学の話をもちだして、あろうことか、したり顔で教訓を垂れるのだ。

 なんという、人間の心理に対する無神経、無理解。

 問題のルートの怒りも、博士に野球のコーチを任せることを懸念する母親に対する怒りとして描かれるだけだ。ルートの怒りは、アパートに帰り着いてからではなく、夕食の帰り、博士に負ぶわれている場面で既に露わにされる。そして母親はその怒りの意味をただちに理解して、ルートに謝る。ルートの自責の念も、成長も、まるで描かれることはない。

 演出以前に脚本も自ら書き下ろしている小泉監督が、小説に描かれた心理の機微をまるで理解していないことは明らかだ。

 もちろん、「授業」という特殊な場がこの場面についてのこのような読みを可能にしているだけだ、とも言える。だが、物語の結末部にある決定的な喪失についても映画がまるで描いていないのは、もはや、この映画が何を語ろうともしていないことの証左だ。

 この映画は、まったく、ただなんとなく、このお話を絵解きしたに過ぎない。そこに美しい桜並木でも映しておけば「良い映画」風のものを作ったつもりになっているのだ。


博士の愛した数式 4

 前項の疑問①、なぜルートは急に不機嫌になったのか、について、教科書の解説書は次のように説明している。

博士と別れ、母子ふたりになったことで、それまで抑えられていたいらだちが抑えられなくなったと考えられる。

 こういう思いつきやすい説明にとびついてはいけない。この説明が馬鹿げていることは、まっとうな小説読者ならば感じ取らなくてはならない。

 前段落の「外食」のシークエンスでは、「ルートは大喜びだった」「満足していた」「ヒーローにでもなったつもりでいるらしかった。」「大威張りで」「素直におんぶをしてもらった」「夜の風は心地よく、おなかはいっぱいで、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。」と肯定的な表現が並ぶ。ここから、「それまで抑えられていたいらだち」を読み取ることはできない。それを読者に伝える描写はない。

 したがって、このルートの怒りは単に上機嫌の演技の下に抑えていた不機嫌が露わになったとかいうことではない。むしろ、前段落の肯定的な表現、三人の間にもたらされた親和的な空気こそが、その後アパートに戻ってからのルートの不機嫌をもたらしていると考えるべきなのだ。

 といって、博士に対する親愛の情が、博士を信用しなかった母親への怒りに変化したのだ、と言っただけでは、涙の訳がわからない。

 では一体、この場面はどのような事態を表現しているのか?


 前段の終わり「博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた。」という描写が表すものは何か?


 ここでは「私」と博士が擬似的な「夫婦」のように描かれていること、とりわけルートが無防備な「子供」として描かれていることを読み取るべきだ。「運動靴はプラプラ揺れていた」とは、博士におぶわれて自分の足で歩かない子供の立場に甘んじているということだ。

 母子家庭にあって必ずしも安楽な、子供という立場ではいられないルートにとって、それは心地よいものであるはずだ。

 この心地よさは、なぜ「不機嫌」に反転するか?


弟に速達で 7 懲りない一族

二聯 命名

三聯 老眼鏡

四聯 北へ行く

 これを、「夢」をキーワードに言い換える。

二聯 祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。

三聯 息子が「夢を追うのをやめた」ことをかつて母親が喜んだ。

四聯 伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。

 ここには微妙な論理の屈曲がある。矛盾と言ってもいい。

 母親は息子が「夢を諦めた」のを喜んだ。だが孫に「夢を追え」と願う。

 ここに納得できる論理を想定する。


 母は息子が「夢をやめた」ことを喜んだはずなのに、生まれたばかりの孫に「夢を追う」ことを願う。そして息子はそうした母親の願いを聞いて、自らももう一度「夢を追う」ことを決意し、あわせて姪にも、母親と同じ願いをかける。一見不整合な展開に授業者は以下のような文脈を読む。

 つまりこれは、懲りない一族の物語なのだ。

 母は確かにかつて「夢」を追ってなかなか定職に就かない息子達を心配していたし、息子が定職に就いた時にはそれを喜んだ。

 だが、考えてみれば息子達をそのように育てたのは当の母親でもある。彼女自身がそれを願ったのだ。そして彼女は今また性懲りもなく孫にも「遠くを見ろ」と願っている。

 このとき「おれ」に生じた感慨はどのようなものか。

 つまり「おれ」は、母が「はるか」という名を考えたことを聞いて、自分の生き方を、母親から肯定されていると感じ取っているのだ。「おれ」は母親に「しんぱいばかりかけた」が、そんな生き方を、母親は決して否定してはいなかった。

 そして定職について母親を安心させはしたものの、「おれ」も相変わらず「小さな夢」を「ずっとたもちつづけ」て、今また母親の肯定を力に北へ旅立とうとしている。そして母親と同じく、姪にも「夢」を見続けろとけしかけるのである。

 連綿と続く夢見る一族の性。

 これはそうした懲りない一族の物語なのである。


 こうした考察によって、詩を構成している論理が目に見える形で浮上してくる瞬間は悪くない。授業者には、ほとんどカタルシスといっていい、興味深い認識の転換だと感じられる。

 詩の読解に限らず、授業でテキストを読むときには、しばしばこうした認識の転換が訪れるのが面白い。


弟に速達で 6 論理を追う

 さて、あれこれ考えてみはしたが、なぜ「思い出した」のか、という疑問は、本当は聯の関係によってしか考えることはできない。だからこそ問いは「聯の関係は?」なのだ。

一・二聯 a 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案している

  三聯 b 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す

四・五聯 c 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける

 書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜaに続いてbが語られるのか、またそれがcに続く脈絡は、考えてみるとどうもわからない。

 aとcの関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからだ。だがそこにbを挟む脈絡とはなんだろう。

二聯 命名

三聯 老眼鏡

四聯 北へ行く

 こう考えるからつながりが見づらくなるのであり、関連を考えるためには、共通した要素を想定するとよい。

 何が適切か?


 とりあえず「夢」という単語が発想されればOK。

 糸口となるのは前回の「30歳まで何をしていたか」の想像だ。

 前述した通り、ここにはあれこれと自由な想像の余地がある。

 だが、ともかくはずしてはならない条件として、少なくとも何かしら「夢を追っていた」のだと考えるべきだ。そう考えてはじめて、三聯がこの詩におかれていることの意味がわかるからだ。したがってここに、単なるニートや闘病生活や服役を想定するべきではない。

 そしてこれは一人「おれ」だけではなく、弟もそうなのだ(「おれやきみは」)。そのことが「ノブコちゃん」に「しんぱいばかりかけた」ことを語り手は自覚している。だからこそ定職について給料で買った贈り物に母親が喜んだことを印象深く覚えている。

 さて、「夢を追う」というキーフレーズが提出されたことで、詩の論理を追う手掛かりができた。二聯と四聯の内容を「夢を追う」というフレーズを使って言い換えてみる。

二聯 祖母が孫に「はるか」という名を提案している

  →祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。

四聯 伯父が、自分の夢を見るために北へ行くと宣言している

  →伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。

 こうした言い方に沿って、三聯を言い換えるとどういうことになるか。

三聯 息子が定職に就いたことを母親が喜んだ。

  →息子が「夢を追う」のをやめたことを母親が喜んだ。

 母親が孫に「はるか」という名を提案していることを聞いたとき語り手が「老眼鏡」を思い出すのは、息子が「はるか」な「夢」を見ることをやめた時に喜んでいた母親の姿を連想したからだ。母親はかつて息子が定職に就いて「夢」を見ることをやめたとき、そのことを喜んだのだった。

 そう考えてみると、このプレゼントが老眼鏡であったことにも、いささか穿ち過ぎの解釈ができないこともない。老眼鏡とは遠くではなく目の前を見るための道具である。「夢」を追っていた二十代の終わりに定職に就くにあたって、「おれ」が贈ったのが、「目の前/現実」を見るための道具としての老眼鏡であったことは何か象徴的だと言えなくもない。

 「なぜ思い出したか」はこのように言えるとはいえ、まだこの詩の中で三聯が果たしている役割については一貫した論理が見えていない。その点についてさらに考える。

 ここにはどんな論理が想定できるか?


弟に速達で 5 なぜ「思い出した」か?

 俺は、なぜ「すぐに」「老眼鏡を思い出した」か?

 実際に皆が思いついた説を列挙してみる。


① 「遠くに見える」からの連想で、見るための道具としての「老眼鏡」が思い出された。

② 母親を話題にのせるとき、その外観上の特徴として「老眼鏡」がイメージされた。

③ 孫が生まれたことから、母親の老齢が実感され、そこから「ゆるゆるになったらしい」「老眼鏡」が連想された。


 いずれもそれなりにわからないでもない。とはいえ充分とも言い難い。

 ①については、老眼鏡が近くを見る道具であることと「遠くに見える」の齟齬がひっかかる。

 ②については、老眼鏡が常にかけているものではないことから、外観上のイメージを代表しているものと考えることに疑問がある。そもそもなぜ外観のイメージを特徴付けるアイテムを想起したことを述べる必要があるのか。

 ③は、単に「孫の誕生」ではなく「命名」の件を母親から聞くことと連想の因果関係が明確でない。「孫の誕生」→「老齢」の連想ならわかる。だがここでは「命名」→「老眼鏡」という連想だ。この因果関係はやはりよくわからない。

 そして、①②③いずれも4聯に続く脈絡が不明で、3聯がここに置かれている充分な理由を説明してはいない。


 ①②③の解釈は「老眼鏡に」焦点があっている。それに対して「老眼鏡」そのものではなく、それが「はじめてのおくりもの」であったという点から連想の機制を説明する案も提出される。

④母親が孫に贈る名前を、あれこれ考えていたのだろうという想像が、自分が母親に老眼鏡を贈ったときにもあれこれ苦労して考えていたものだという連想に結びついた。

⑤孫娘はいわば母親にとっての贈り物であるという認識が、自分が母親に贈った老眼鏡の連想に結びついた。

 これらもまたなかなかに巧みな説明だ。授業中には、こうしたアイデアがなるべく豊富に提出されるのが面白い。

 だが授業者の考えでは、④⑤は、いわば考え過ぎ、だ。そうだとすると、そうした読みに読者を誘導する情報が、ほかに詩中に示されるはずだからだ。それが書かれていないことが不自然だと感じられる。


 ではなぜ「おれ」は「はるか」という名から「老眼鏡を/思い出した」のか?

 ①②③では「老眼鏡」の出自は問題ではない。単に「ノブコちゃん」自身が買って常用しているものでもかまわないことになる。それに対して④⑤では「おくりもの」が例えばネッカチーフなどでもかまわないことになる。

 どう考えるべきなのか?


2024年7月11日木曜日

虚ろなまなざし 8 主張

 「暴力的な主体化の問題性」というフレーズには、この文章全体で語られる問題群が凝縮している。だから4~5回の授業は、この問いについて考えるだけで終わった。

 だが、前々回で示した「暴力」と「主体化」と「問題性」の因果関係の構造そのものを岡真理が示したかったとすると、この文章はあまりにわかりにくすぎる。すなわちそれはこの文章が、それそのものを読者に提示することを目的にしていないことを示す。

 読者の方で再構成したのが前回の構造図であって、それを読者に示すつもりなら、岡真理はもっと手際よく、わかりやすく書くはずだ。

 つまりこれは岡真理の主張の背景となる認識であって、この文章の主張そのものではない。

 では何を主張しているのか?


 今回この文章を読むのも、柄谷、小林、鷲田と読み継いできた一連のテーマの流れだ。

 とすればこれもまた近代批判? だがどのような意味で?

 例えば次のような一節を読み比べるだけでも、岡真理が柄谷と同様な問題意識を射程に収めていることは容易に見てとれる。

「虚ろなまなざし」

私たちが生きる、この地球社会に山積した問題の数々。民族問題、環境問題、南北問題、人権問題……それは、この世界に生きる私たち一人ひとりの問題でありながら、ほうっておいても、いつか、どこかのだれかが解決してくれるかのように、いつもは、他人事のように忘却を決め込んでいる私たち、これらの問題を紹介するテレビや新聞の特集や詳細なルポも、ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう

「場所と経験」

直観的に言えば、我々が新聞やテレビで知るような場所や事件はこういう空間に属しているように思われる。それは近所で見聞する事柄のようなリアリティを持たないし、肉眼で見るような切実感もない。その上、それは妙に国際的である。沖縄、ベトナム、ビアフラ、テルアビブ……これら各地で起こっていることに我々は均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起こっているからである。

 ここに共通する問題意識とは何か?

 確かに、世界に起こる国際紛争などの「問題」についてのルポルタージュを「ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう」ことが問題であることはわかる。だがそこからこれを、例えばメディアリテラシーの問題として捉えたり、広く世界の問題に目を向けようといった教訓に進んでも、「情報の一つとして消費してしまう」ことや「均質な関心を寄せる」ことにしかならない。

 文章を読む目的は、それを「理解する」ことなのではなく、それを「使う」ことにある。ここまで論じてきた「比較読み」も「使う」ために読むことの一つの実践なのであり、「虚ろなまなざし」を、現代社会の問題を考える上で「使う」ことはその意味で妥当な扱いだ。

 だが、その扱いは容易ではない。

 例えば「虚ろなまなざし」から抽出されそうな「我々自身の『加害者性』に目を向けよう」などという教訓は容易く岡真理のいう「キャンペーン」に流れて「消費」されてしまうだろう。あるいは「場所と経験」を、「『真の知識』を得るためには、テレビで観るのではなく事件の現場に行くしかない」などといった主張をしているかのような、見当違いの解釈をすることに陥ってしまうだろう。

 それぞれの文章をその内部で読むだけでは、例えば両者が「文学」について語っていることはわからない。「場所と経験」で最後に突然言及される「文学」は唐突に過ぎて何のことかわからないし、「虚ろなまなざし」の本文中には「文学」への言及はない。

 だが、岡真理が批判するジャーナリズムやその享受者たる我々に対置するものとしてアラブ文学を専門家とする彼女が想定しているのは「文学」のはずなのだ。

 そしてそれは柄谷が「見たものだけを見たということ」から出発するほかに不可能だと語る、その「文学」である。


 「私たち自身の加害者性を隠蔽する」ことが問題だと岡真理は言う。ということは、私たちは自らの加害者性を自覚することが大切なのだ、と岡真理は主張していることになるのか?

 それは確かに間違ってはいない。だが彼女はそのように表現されるお説教くさいお題目を唱えたいのか、と言えばたぶんちょっと違う。

 あるいは世界のニュースを「他人事のように忘却している」姿勢が批判的に述べられている。ならば、少女についても自分のことのように考えるべきなのか?

 だがそのような主張がカメラマンを死に追いやる「文字どおりの暴力性」を生んだのではないか?


 「虚ろなまなざし」という奇妙な題名の文章が何を主張しているかということは、実は授業者にとっても難問だった。というか、授業で取り上げる前には、この文章は何が言いたいかわからないと感じていた。

 それが腑に落ちたのは柄谷行人「場所と経験」と近い時期に読んで、両者が結びついたときだった。

 二人がそれぞれの文章で主張していることは、実は同じなのだと気づいたのだ。


 柄谷の主張を端的に言うならば「視たものだけを視たと言え」である。

 これを言い換えると「視たものにもっともらしい意味づけをするな」である。

 岡真理は何を主張しているか。

 「『それ』の恣意的な主体化をやめろ」である。

 「それ」の主体化がカメラマンを殺し、私たち自身の加害者性の隠蔽を招いているのである。

 両者は同じことだ。つまり 意味づけ=主体化 である。

 物言わぬ少女に声を当てることは、恣意的な「解釈」(小林秀雄)だ。つまり、声を当てる=主体化は「解釈」=「意味づけ」なのである。


 とすると、題名の「虚ろなまなざし=それ」は「場所と経験」では何にあたるか?

 いったん比較してみようという目で眺めてみれば、「虚ろなまなざし」の中の例えば〈私たちは「それ」を、この世界の中に、私たちとの関係性の中に―肯定的であれ否定的であれ―位置づける〉などという表現が、「意味づけ」「解釈」などといったかたちで柄谷、小林によって繰り返されていたことがただちに見てとれる。

 柄谷は「意味づけ」の動機を〈もっともらしさを確保したい〉と言うが、それを岡は〈まなざしのその「虚ろさ」、意味の欠如、それが私たちを不安にする。〉と強調しながら反復する。

 〈そこにあってしかるべき、『恐怖』や『苦痛』といった感情が表明されていないこと〉に耐えがたい我々は〈語れない少女に代わって〉少女の感じているであろう「恐怖」や「苦痛」を語らずにいられない。そうして語ることは、柄谷のいう〈知ったような気になっている〉ということだ。

 既にはっきりしている。〈私たちが読み取り、同一化することのできるような、いっさいの意味を欠いていること〉=〈「それ」がまさに「それ」でしかないこと〉=「虚ろなまなざし」こそ「生きた他者」に他ならない。

 その不安に耐えられない我々は「暴力的な主体化」によって立ち上がるが、それはあくまで「均質な空間で起こっている」ことに対して「均質な関心を寄せ」ているに過ぎない。


 つまり「虚ろなまなざし」の持つ「他者性」が、我々に「暴力的」に「トラウマ」を与えるのである。トラウマを負った者は、少女を「主体化」して、その声を代弁する。「暴力」を受けた者が、その「暴力」を避けようとして「暴力」をふるう側に回るのである。

 そうした「主体化」を拒む者こそ「視たものだけを視たという」者だ。

 つまり岡真理の言っているのは、単純に言ってしまえば、こうした「暴力」に負けずに「それ」を直視せよ、ということだ。

 そして〈そこから出発するほかに、どうして「文学」が可能だろうか〉と柄谷が言うように、アラブ文学者である岡真理もまた「それ」を「それ」のままに描くことこそが「文学」の使命だと言うにちがいない。

 柄谷「場所と」や小林「無常と」の中ではこの苛烈さは特に強調されてはいないが、その困難に向かって柄谷も小林も声を上げていることは間違いない。柄谷が「視たものだけを視たと言え」というのも、小林が「解釈せずに思い出せ」というのも「『それ』を『それ』として見ろ」と岡が言うのと同じことだ。それを実行する困難こそ、これらの論者が共通して言挙げしていることなのだ。


 ここでもまた、互いの文脈の中に互いの表現をはめこんで、どちらの文章の主張でもあるようなことを語れる。これは決して単なる言葉遊びでもなければ牽強付会でもない。こうして語りながら、不断に元の、それぞれの文章との比較によって生ずる違和感を測りながら細かく修正しているのだ。

 同時に、そうした読み比べによって、始めてこれらの論者の問題意識が確かな手応えで捉えられるのである。


2024年7月10日水曜日

虚ろなまなざし 7 加害性の隠蔽

 一つのフレーズから文章全体を把握するという方法で「虚ろなまなざし」を読解してきたが、「問題性」の一つとして取り出した「私たち自身の加害性」は、若干立ち入って考察する必要がある。

 一方でこれは、文中では殊更に詳しく説明されているとも言い難い。わかる人はわかるはずだ、という、読者に対する筆者の信頼が、余計な説明を省いている。

 例えば説明と言うより言い換えにあたるのは次のような表現だ。

他ならぬ私たち自身が「それ」の苦痛の元凶である

 これだけの前振りを元に「私たち自身の加害性」を理解するのは難しい。

 だがこれより後でもう一度次のように言い換えられる。

南北構造を固定化する世界システムの中で飽食している私たち自身の姿

 ここで「なるほど」と思えなければ、もう文中の説明によってはこれ以上この表現を理解することはできない。

 つまり問題を「南北構造」に限定するならば、「北」側に属する我々は、「南」側に属している人々、例えば写真の「少女」に対して、自覚の有無にかかわらず「加害者」なのだ、と言っているのだ。

 これは国語科の問題というより社会科の扱うべき問題だ。


 さらに、なぜこの加害者性が「隠蔽」されるのか?

 こちらは国語科の問題だ。この文章から読み取らなければならない。

 「隠蔽」は「かき消されてしまう」と言い換えられているから、その文の前半「難民の少女に被害者として同一化して、カメラマンを非難することで」がその機制を説明しているわけだが、これがどうして「隠蔽」につながるのかは、またしても読者の理解に委ねられていて、これ以上に詳しい説明はない。

 だがむろん、こんなことはわからなければならない。

 だが求められる「国語力」とは、これを「理解」することより「説明」することにある。

 この点については授業で、想定外の「説明」が提示された。「カメラマンを非難する」からだ、というのだ。どういうことか?

 つまりカメラマンを「加害者」として攻撃することで、自分たちの「加害者」責任が転嫁される、というのだ。

 なるほど。理屈は立つ。だがなぜカメラマンが「加害者」なのか?

 つまりこのカメラマンは「傍観者」なのだ。なるほど、傍観者も加害者の仲間だ、などという認識は、「いじめ」についての言説の中でしばしば目にする言い方だ。

 とすると、私たちもまた「傍観者」に過ぎないという点でカメラマンと同じだったはずなのに、そのカメラマンを非難することで、自らの「傍観者=加害者」性を忘れてしまう、と。

 想定外の「説明」だった。


 だがまっとうな「説明」はこうではない。

 むしろその前半「難民の少女に被害者として同一化して」の部分こそ、この文章が取り上げている問題だ。

 この文章の肝は「主体化」だ。

 前述の通り「主体化」はいくつもの意味を重ねて含み持つが、さしあたって「少女を語る主体にする」のことだとしよう。だが実際は少女は語っていない。少女が語っているかのように当てられているのは、実は我々自身の声だ。つまり我々は少女を「主体化」することで自身を「被害者として同一化して」しまうのだ。自分が「被害者」になってしまうのだから、「加害者」であることは見えなくなる。

 これが「加害者性の隠蔽」を生む規制の、端的な「説明」である。


虚ろなまなざし 6 継起順に並べる

 「暴力的な主体化の問題性」を考えるにあたって、「主体化」が2つ、「問題性」が3つ、「暴力」が4つ、文中に存在することを確認した。


主体化

(1)語る主体になる

(2)行動する主体になる


問題性

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


暴力(番号をふりなおす)

① 私たち→少女

② 少女→私たち

③ 私たち→カメラマン

④ 世界システム→少女


 これらはそれぞれ、文章全体のあちこちで反復される。だからどれも無視することはできない。筆者はそれぞれの言葉にそれぞれの意味を含意していると考えられる。

 では、問題の「暴力的な主体化の問題性」というフレーズを全体として説明するために、どのような方法が可能か?


 複数の項目の関係にはいくつかの型がある。「I was born」では5聯と6聯の関係を示すために「対立」「並列」の二つの型を選択肢とした。

 今回は2項対立ではないので、「対比(対立)」で示すのは不適切だ。

 では?

 授業ではベン図案も出た。表にまとめるアイデアも出た。表では、縦列横列がどういう法則性かが問われる。ベン図はどんなカテゴリーを想定すれば良いのだろう。


 授業ではクラスの誰かがそのことを思いつく。

 これらの諸要素を因果関係によって継起順に並べてみよう、というものだ。

 その際、起点に置くべきなのは主体化? 暴力? 問題?


 粘り強くこれらの因果関係をたどってみれば、「暴力」がこうした複雑な事態の出発点にあることがわかるはずだ。


④ 世界システム→少女

 暴力を受けた少女から「それ」=「虚ろなまなざし」が生まれる。

 カメラマンがそれを写真に収め、世界に発信する。

 それを見た我々がトラウマを受ける。

  ↓

② 少女→私たち

 私たちは耐えきれず「それ」を語る主体にする(1)。

 だがそれは彼女たちの声を奪うことに等しい。

① 私たち→少女

 B.少女の声の可能性の抑圧

  ↓

 同時に、少女を主体化することは実は私たちが彼女に代わって主体になることに等しい。かわいそうな少女に代わって語る主体になることは、ただちに彼女を救うための行動する主体になることでもある(2)。

 そして、そうした運動の中で、時にはかわいそうなカメラマンを追い詰めてしまう。

  ↓

③ 運動(私たち)→カメラマン

 A.文字どおりの暴力性

  ↓

 C.私たち自身の加害者性の隠蔽


 こうして、すべての「暴力」「主体化」「問題性」を網羅した因果関係をたどった果てに置かれるCは、出発点の④にかえっていく。なぜなら「加害者性」というときの「加害」こそ④の「暴力」なのであり、加害者たる「世界システム」とは私たち自身のことでもあるのだから。

 出発点の④が隠蔽されることで、この構造は解決に向かわずにループする。


 さて、授業ではこの構造を図示してみんなの前で説明することを求めた。

 図示しようとすると、例えば矢印の使い方に工夫が必要になる。継起順と暴力の方向(あるいは主体化の影響を及ぼす力の方向)を表す矢印を描き分ける必要がある。このブログでは下向きが継起順で右向きが暴力の方向を示しているが、まあ平板にすぎるので、F組H君に提供してもらった的確でわかりやすい図を挙げる。






 

虚ろなまなざし 5 様々な「暴力」

 さて、「主体化」と、三つのパターンによって関係する「暴力」は、この文中でどのように語られているか?

 いくつもの「暴力」が文中に登場する。その暴力の「方向」(文法でいう「敬意の方向」的な)を明らかにしよう。それは誰に誰に対する暴力なのか。

 また、その暴力は「主体化」という変化に対して、「原因」となるのか「結果」なのか、あるいは「主体化」というプロセス自体が「暴力的」と形容するしかないような変化なのか。


 さしあたって三箇所の「暴力」の記述について注目する。

ア 難民の子どもの、その虚ろなまなざしである。そのような視線にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。

イ そのまなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいるからではない。

ウ なぜ私たちは、意味づけられない空洞が、かくも耐えがたいのか、一人の人間を暴力的に死に追い込むほどまでに?


 それぞれの「暴力」の方向を確認しよう。

ア 「それ(少女)」→私たち

イ 状況(世界システム)→少女

ウ 私たち→カメラマン

 アの「暴力的」はその「主体化」が引き起こす結果としての暴力、すなわちウをも指している形容だとも考えられる。だがさしあたり「トラウマ」という言葉を「暴力」によるものと考えると、ウではない「暴力」がそこには想定されている。

 またウの「耐えがたい」はアの「トラウマ」を生み出す情動だが、ここでの「暴力」はカメラマンを「死に追い込む」ものを指していると捉えておく。

 これらの「暴力」は先の「問題性」ABCとどのように対応しているか?

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽

 Aはウのことだ。

 Bはアイウのいずれでもない。だが「抑圧」と言い、「可能性を全て奪う」という表現で繰り返されているBもまた明らかに「暴力」だと筆者には捉えられているはずだ。これをエとして取り立てておこう。

エ 私たち→少女

 Cの「隠蔽」は暴力ではないが「加害者性」の「加害」は暴力を指しているから、Cはつまり暴力が隠蔽されるのは「問題」だと言っていることになる。

 アはABCいずれの「問題」にも対応していないが、この一節の「暴力的」という形容は実はアを最も強く念頭に置いて付せられているとも言える(これは、ここを考える上での本質的な問題なので、後でまた論ずる)。


 さて、これらの「暴力」と「問題」、そして「主体化」は、どのような関係になっているか?


虚ろなまなざし 4 様々な「問題性」

 「暴力的な主体化」という表現を解釈するために、文中に現われる「主体」「暴力」といった表現を追ってみた。それらは単一の解釈を容易には成立させてくれない。


 「AがBを主体にする」ことは「BがAによって主体になる」ということだから、問題はABに代入されるのは何か、だ。

 さらに、どのような行為の「主体」なのかという点で「語る/行動する」という解釈の分岐の可能性が見えてきた。


 「暴力」も、その方向性を示していくつかの暴力が登場していることを確認する。

 誰が誰に暴力をふるっているのか?

 「主体化」に絡むプレーヤーが「それ(少女)」と「私たち」の二択だとしても、「暴力」の方に絡むプレーヤーはそれだけではない。

 少なくともこの文章中には4つ以上の「暴力」が登場している。


 さらに「暴力的な主体化の問題性」を解釈する際には次のような問題がある。

 「…問題性とは」に続く部分を段落末まで読んでみる。

 すると「…というだけではない。」というフレーズがある。並列を表わす表現だ。

 さらにそのあとを読むと「と同時に」という語句による並列が示される。

 つまり「暴力的な主体化の問題性」とは、「 A というだけでなく B と同時に C でもある」といっているのだ。

 この二重の並列をどう整理するか?


 本文に沿ってそのまま整理するなら

A 人を時に死に至らしめるほどの、文字どおりの暴力性

B 私たちが恣意的に投影した私たちの声が「それ」の声となってしまうことで、もしかしたら、そうではないかもしれない、ほかのさまざまな声の可能性を抑圧してしまう

C 私たちが被害者として同一化することで、もし、私たち自身が加害者であった場合に、その加害性を都合よく隠蔽することにもなってしまう


 さらに抽象度を高めた表現にしてみる。

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽

 さて、これらABCの「問題」は、どのような関係になっており、それは「暴力的な主体化」とどのような関係になっているか?


虚ろなまなざし 3 様々な「主体化」

 「暴力的な主体化の問題性」とは何か?


 まず「主体化」と「暴力」それぞれ、それらがどのように文中に見出されるかを意識して、再度通読する。その際、主語・目的語の方向性を明らかにする。

 何が何を「主体にする」か?

 何が何に暴力をふるっているか?


 まず本文で「主体・主体化」がどのように使われているかを確認する。

 前の部分に「少女に代わって、少女の恐怖を語る主体になる」という一節がある。

 「主体になる」のは誰か?

 「私たち」だ。

 つまり「それ」が「私たち」を「主体化」するのだ。少女の声を「語る主体」に。


 後ろの部分には次のような一節がある。

(アフリカの難民の子どもの、その虚ろなまなざし)にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。

 ここでもやはり「それ」が私たちを「主体化」する、という。

 これは「語る主体」なのだろうか?


 だがまた一方でその直前には次の表現もある。

私たちを突如、行動する主体へとかりたてる

 「行動する主体」だ。これは「語る主体」と同じと見なしていいのか?


 さらに引用する。

  • 「それ」が、それ自身の、語りの主体になってくれること
  • 「それ」が決して主体―Subject―主語の位置を占めないこと
  • 私たちが「それ」に、声なき声を聴き取ることで、「それ」は「それ」であることをやめ、主体化される

 これらは全て「語る主体」のことだが、ここでは語るのは少女だ。

 さっきは私たちが語るのではなかったか?


 そういったそばから次のような表現が頻出する。

  • 「それ」を主体化すべく私たちが行動する
  • 私たちをこのように行動する主体に駆りたてる

 ここでは「行動する主体」のことであり、行動するのは「私たち」だ。


 以上のことからすると、「主体」とは「語る主体」と「行動する主体」の二種類がありそうだし、「主体化」の主語と目的語も「私たち」と「少女」の2パターンありそうだ。


 「暴力的な主体化」という表現も問題だ。「~的」という形容が曖昧なのだ。

 「暴力的な主体化」という表現は、単に言葉の上で三つの解釈が可能だ。

A 主体化そのものが暴力

B 暴力が主体化を引き起こす

C 主体化が暴力を引き起こす

 Aは、それ自体が暴力であるような主体化。BCの「暴力」は「主体化」ではない。「主体化」の原因や結果ではあっても、それ自体は別に「主体化」ではないような「暴力」だ。

 Bは暴力によって引き起こされた主体化。

 Cは暴力を引き起こすような主体化。

 いずれも「暴力的な主体化」と表現されてもいい。

 そして、文中に言及されるいくつかの暴力と上のいくつかの主体化の関係には、実際にこれらABCのパターンのいずれかに該当するものがそれぞれ登場する。


虚ろなまなざし 2 暴力的な主体化

 「暴力的な主体化の問題性」とは何か?


 しばらく話し合って、問題点が見えてきただろうか?

 こういうときは問題を選択肢のあるような問いに置き直すことも有用だ。

 どうやって?


 「主体化」は「主体化する」なのか「主体化される」なのか?

 「主体化」とは「主体になる」なのか「主体にする」なのか?

 もちろんこれらは主語と目的語を入れ替えて、同じ意味を示すように言い換えることができる。

 だが、誰が誰を「主体にする」のか、という問題は選択肢として分岐する。 

  • AはBによって主体になる=AはBに主体化される
  • BがAを主体にする

 AとBには何が代入されるか?


 こういうときはゆめゆめ、全員がそれぞれの解釈をまず脳裏に描き、それを提示しあって虚心に検討しなければならない。

 自分が話し合いの中でしていた「主体化」の説明はどれだったか?

 自分の考えが曖昧なうちに話し合いに入ると、最初に話し出した者の考えに引っ張られて、それとは違ったふうに考えていた自分の考えが霧散してしまう、ということが起こりがちだ。

 すべての選択肢について、それを支持する者がいていい。これはそういう問題だ。班の中で説得力のある人の選んだものを「正解」とする必要はない。これは、唯一の正解にあっさりとたどりつくような問題ではないのだ。

 その上で、考えるべきなのはどれが正解かではなく、分岐した解釈同士の関係だ。


 さてその「主体化」が「暴力的」とはどういうことか?

 「暴力的」という言葉は文中ではここで初めて登場する。何を指して「暴力的」と言っているかという把握にも解釈の余地がある。

 さて「暴力」について選択肢のあるような解釈の可能性を考えるならば、「主体化」と同じく、次のような問いにしてみればいい。

 誰の誰に対する「暴力」なのか?


 文中には、様々な「暴力」が語られている。直接「暴力」という言葉が使われていない部分でも、「殺す」「恐怖」「苦痛」「加害」「抑圧」「耐えがたい」など、「暴力」に結びつきそうな表現は頻出する。

 だがそれぞれが何を指しているかは充分に文脈を捉える必要がある。

 そして「主体化」と同じように、それら複数の「暴力」同士の関係性について考える。


 以上のような要素の検討に基づいて「暴力的な主体化の問題性」について捉えよう。


虚ろなまなざし 1 問いを立てる

 岡真理の「虚ろなまなざし」を読む。

 岡真理は慶應大や一橋大他、国公立大や有名私立大の出題もある注目の論者。専門がアラブ文学ということで、第三世界に関する、文化的多様性、文化相対主義といったテーマの文章が取り上げられることが多い。

 「虚ろなまなざし」もまた、そういった問題を取り上げているのだろうか?

 確かにアフリカにおける度重なる紛争の結果として生じた難民問題・飢餓の問題に言及してはいるが、論じている問題の焦点はそこではない。

 では何か?

 題名の「虚ろなまなざし」とは何を意味しているか?


 さて、最近の授業では毎度、何を考えるべきか? と問うている。問われて答を探すより、まず問いを立てる。何が考えるに値する問題なのかを見つけることはきわめて重要だ。

 文章全体の読解は例によってスキーマの問題なので、これはその時が来たら考えるとして、まずは考えるべき一節を文中から見つける。

 初回授業では、みんなに片っ端から聞いてみたのだが、残念ながらこちらの想定している一節を提示する人は学年で数えるほどだった。

 まあ、いろんなところはいろんな意味で気になったり、考察しがいがあったりするかもしれない。だがそれらの問題のほとんどは、次の一節を考察することに含まれている。授業者自身も、授業を繰り返しているうちに、この一節について考察することが、この文章全体を考察することになるのだと、次第に気づいていったのだった。

 考察するのは次の一節。

「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性

 この一節が意味することを徹底的に考察する。


 本文では「暴力的な主体化の問題性とは」に続く部分がその説明なのだから、それを適切に捉えればいいだけだとも言える。テスト問題ならば、理解がどうであれ、まとめてしまえば解答は作れる。

 だがテスト問題に回答できることと、理解しているということは必ずしも一致しない。この一節が腑に落ちるように思えるかといえば、そうではなかろう。

 このことをちゃんと考えるためには「問題性」の前にまず「暴力的な主体化」とは何なのかを捉える必要がある。それが「問題」だと言っているのだから。

 では「暴力的な主体化」とは何か?

 これは決して自明なわけではない。


無常ということ 8-読み比べる

 「無常ということ」を「場所と経験」と読み比べることで論理付ける。

 もちろん思考のガイドとなるのは、それぞれの文章の対比図だ。

 どのように照らし合わせると、どのようなことが「わかる」のだろうか?

場所と経験








「場所と経験」では、結局「感性的/均質な」という対比に重心が移って文章が閉じられることを確認した。この主要な対比を「無常ということ」の対比と比べてみる。

無常ということ






 個々の表現の印象の類似性もあるだろう。「意味づけ」と「解釈」が対応していることは授業で確認した。

 すると、「場所と経験」の対比と「無常ということ」の対比の左右がそれぞれ対応しているのだろうと見当がつく。

 どちらの文章でも、左辺を否定して右辺を推しているからだ。


 こうして並べてしまえば、あとはいかようにも言える。上の配置図に挙げられた表現をつかって、二つの文章をこんな風にコラージュしてみよう。

 柄谷が、自分が直接に見たものの「リアリティ・切実感」からしか「真の知識」は得られないのだというように、小林は、「心を虚しくして思い出す」ことでしか、我々を「動物的状態」から救う、美しい「常なるもの」は見い出せないのだと言っているのである。


 「新聞やテレビ」で知った「国際的」な事件は、多くの歴史家の頭を充たす、歴史についての「記憶」と同じものに過ぎない。そうした経験に我々は「意味づけ」をして、「もっともらしさを確保する」ように、現代人はそうした歴史の記憶を「解釈」してわかったつもりになるのである。


 「解釈を拒絶して動じないもの」こそ「真の知識」であり、そうした認識にいたった鷗外や宣長こそ、歴史の魂に推参した「文学」に到達したのである。柄谷が「生きた他者」からしか「人間」について知ることはできないというように、小林は「死んだ人間」こそが「まさに人間の形をしている」というのである。


 「生きた他者」=「死んだ人間」!

 小林の「生きている人間」を柄谷の「生きた他者」と結びつけてしまうと、対比の対応関係がまるで逆転してしまう。「死んだ」と「生きた」こそが対応しているのだと納得するためには、文脈の論理を捉える必要がある。

 「生きた他者」=「死んだ人間」とすると、両者の共通点は何か?

 「どちらも~」と言い出してみて、続く言葉は何か?


 両者の共通点を積極的に言うことは、実は難しい。こういう時には対比の考え方を使う。対比される側に「ではなく」を付けるのだ。

 両者はどちらも、こちらの解釈=意味づけを拒むものだ。

 こうした意味合いは、言葉のニュアンスからも捉えられる。

 例えば評論を読む際に必須の認識として、「他者」という言葉は単なる「他人」の意味ではなく、「こちらの解釈を拒絶する存在」を意味していることを知っておく必要がある。そうした認識があれば、「死んだ人間」こそ「生きた他者」であるという奇妙にねじれた帰結をも受け容れることができる。


 柄谷を経由して初めて、小林の「解釈する」と「記憶する(だけ)」が、同じように「思い出す」の対比として並列されるわけが納得できる。

 柄谷は言う。

われわれは日々多くのことを経験しているが、そのほとんどはたんに経験したような気になっているにすぎないので、だからこそ意味づけが性急に要求される。事件が不可解だからではない。意味づけることで、もっともらしさを確保したいからにすぎない。

 これは「頭を記憶でいっぱいにしている」「多くの歴史家」こそが「歴史の新しい解釈」という罠に囚われてしまう事情を端的に述べている。

 そしてその「解釈」と「意味づけ」こそ、小林と柄谷が厳しく拒否しようとしているものだ。


 こうした対比によって、「無常ということ」でも最大の謎といっていい「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想」について、ようやく考えることができる。

過去から未来に向かって飴のように延びた時間

を柄谷の文章で翻訳すれば

ここからあそこに向かって地図のように伸び拡がった空間

とでもいうことになる。

 これは端的に柄谷の「均質な空間」にならって言えば、「均質な時間」のことなのだ。

 数直線上に均等に配置される史実によって成立する歴史、というイメージこそ、柄谷の言う「地図のように均質な空間」でさまざまな出来事が起こるこの世界、というイメージに重なり合う。


 結局これらの文章は何が言いたいのか?

 柄谷は、世界を「均質な空間」だと捉えているだけでは、そこでの経験を擬似的なものとしてしか受け取れないといい、小林は、数直線上に並んだ歴史を「記憶するだけ」では、「常なるもの」を見失った「動物的状態」から逃れることはできない、と言っているのだ。

 あるいは、柄谷は、出来事を「意味づけ」をしてわかったつもりにならずに「生きた他者」を見ることでしか「真の知識」を得ることはできないと言い、小林は、歴史を「解釈」してわかったつもりにならずに、ただ「心を虚しくして思い出す」ことでしか「常なるもの」は見い出せない、と言っているのである。

 こうしたまとめも、基本的には先ほどのコラージュの変奏だ。


 ただしこれをきいて「ああなるほど」と思うことはまるで無駄だとは言わないがそれほど意味のあることではない。

 それよりも自分でやってみることだ。こうしたコラージュをやってみることによって、これらの文章の言っていること、筆者の考えていることが血肉化される。


無常ということ 7-再び、対比

 全体の対比をとり、考察の必要な受け取りにくい「部分」に考察を加え、さてでは小林秀雄はこの文章で何を主張しているのだろうか?

 それは明らかになったのだろうか?


 対比を整理することは、文章の、思考の論理を整理することだ。

 対比構造を対立項毎に左右に振り分けて、その差違線から輪郭を明確にするとともに、左右それぞれの領域を通観することで、そのまとまりも意識しよう。








 それぞれをつなげてみる。

左辺

現代人は、多くの歴史家のように頭を記憶でいっぱいにして、歴史を新しく解釈することに汲々とした挙げ句に常なるものを見失って、一種の動物にとどまっている。

右辺

鷗外や宣長のように、心を虚しくして巧みに思い出すことによってしか、解釈を拒絶して動じない常なるものを見出すことはできない。

 つまりこれは全体の趣旨を要約しているわけだ。

 これでかなり全体を俯瞰することができた。だがこれでもまだ、必ずしも「わかった」という実感、いわゆる腑に落ちるという感じに繋がるとは限らない。


 例えば「思い出す」とはどういうことか?

 それが小林によって推されていることはわかるが、それがどのようなことであるのかは自明とは言い難い。言葉としてあまりに日常に埋没しているがゆえに、ここで特別な意味を担わされているらしいこの言葉の意味をうけとりかねるのだ。

 一方で「思い出す」の対比として「解釈する」と「記憶する」が並置されているのはどういうわけか?

 一般に、「解釈する」とは対象への主体的な対峙であり、「記憶するだけ」にはそうした主体性を抑制した客観的な態度である(ような感じがする)。むしろ「解釈する」と「記憶するだけ」こそ、対立した概念ではないのか。にもかかわらずどうしてこれらが同じく「思い出す」に対置されるのか?


 こうしたことを考えるのは、もう「無常ということ」の内部では限界だ。内部の論理の整序による読解だけではこれ以上は先に進めない。自家中毒的な「迷路」に迷い込むばかりだ(「美学」の意味がこの文章内では決定できなかったように)。

 文章内の構造分析は、必ずしも「わかった」という実感を保証しはしないのだ。

 いや、むろんあるレベルでは、こうした対比構造の把握をする前よりもよほど「わかった」という実感はあるはずだ。「わかる」という感覚は常にある段階での、その前の段階との差異によって訪れる感覚だ。「場所と経験」を「幻想的/感性的/均質な」という構造に整理することも、「無常ということ」を「記憶・解釈する/思い出す」という構造に整理することも、あるレベルでの枠組みに情報を当てはめる=理解することに成功しているのだとは言える。

 だからその先、だ。


 授業者にとって、次の段階の「わかる」という感覚が訪れたのは、「無常ということ」と「場所と経験」、二つの文章が同時に意識に上ったときだ。あるとき、二つの文章が主張していることは同じだ、と突然気付いたのだ。その途端、両者が「言いたいこと」の感触がにわかにはっきりしたものになった。これは、後で考えたところによれば、二つの文章が、互いに枠組みとして機能したということだ。

 この感触は一瞬にして訪れたのであり、それを自覚的に跡付けることも、他人に説明することも、その一瞬の正確な再現ではない。しかし、それを他人向けに図式化して言語化することが、自分自身にとってもそれ以上の考察を可能にする。

 授業という、一人で思考するのとは違う「場」が、こうした考察を可能にする。



無常ということ 6-美学には行き着かない 4

 二つの授業でいくつもの読解に小論文の課題を設定しているせいで、それぞれの題材の考察の結論をブログ上で提示する前に、次々と次の題材の話に切り替わっている。

 それぞれの話題の記事を続けて読む際は「ラベル」で絞って。

 さしあたり「無常ということ」の決着をつける。


 「美学には行き着かない」とはどういうことか?

 この部分の解釈には個人的な思い出がからんでいる(この話をしたクラスとしていないクラスがある)。

 「無常ということ」は長らく教科書に載り続けている文章だから、授業者もまた高校生のときにこれを授業で読んだ。この部分の解釈にまつわる不一致は、実は高校生の時の授業者の体験なのだ。

 国語の授業は、しばしば授業とは別の本をこっそり読んでいたりもして、比較的起きていた(他の教科の授業はよく寝ていた)。だから国語の授業の内容は比較的追っていたと思う(起きていたので)。

 そして、この部分について先生が語る解説に違和感を覚えたのだった。

 何がどう違っているかはわからないが、その違和感は看過しがたく、遠慮がちにそのことを表明してやりとりするうち、次第に先生の説明に対する違和感の焦点が③のEFの解釈の違いであるらしいことがわかってきた。当該授業と、さらに次の授業1時限を費やして議論したが、決着をみなかった。

 この理由は、つまりこの問題には、どちらかを「正解」とする根拠が、この文章からは導けないということだと現在の授業者は考えている。最初から「正解」はない、と言っているのはそのためだ。

 ただ、この授業の担当教師は、年度末の最後の授業(3年だったから、高校の最後の国語の授業)でこの件に触れて、生徒が授業の内容に質問を投げかけてくることさえ稀なのに、まして先生の言うことは違っているなどと生徒が言ってくることはめったにないから、たいそう面白い事件だったという話をしたのだった。彼がそんなふうにこの件を受け止めていたことなぞ全く知らなかったから、その表明には驚かされたが、同時にその柔軟な姿勢に心を打たれたのだった。


 さて結局どう読解するか。

 議論をすればするほど、ある意味では理解が深まる。同時に議論すればするほど、結局わからなくなる、とも言える。

 それほどに、この部分の解釈はすっきりと腑に落ちることがない。

 ただ、選択肢にした問いのうち、③だけは結論を決定できる。

 だがそれは、上に述べた通り、この文章内の情報では不可能だ。その意味では①②と変わらない。

 じゃあなんで③だけが?

 ③についての結論はEだと言っていい。だがそうだと言いうる根拠はこの文章の論理にあるわけではなく、例えば「無常ということ」という連作の別の文章、「当麻(たいま)」の次の一節に拠る。

僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確めた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」 美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから、彼はさう言ってゐるのだ。

 この中の〈美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。〉はとりわけ人口に膾炙した一節で、あちこちでよく引用される。

 ここからは次の対比が抽出できる。

「花」の美しさ/美しい「花」

     観念/肉体

 そしてここに書かれていることは「無常ということ」にそのまま通じている。「解釈する/思い出す」の対比だ。

 つまり、「美学者」はありもしない「観念の曖昧さに就いて頭を悩ま」していて、それは「化かされている」のだと小林秀雄は言う。「無常ということ」の「多くの歴史家」が「一種の動物にとどまる」というのと同じような揶揄だ。

 とすれば、小林が「美学には行きつかない」というのは、E「行くつもりがない」ということなのだ。

 我が高校時代の先生はおそらくこのことを知っていたのだ。だがF「行き着けない」=「思い出せない」という意味で解釈していた授業者には、その説明は腑に落ちるものではなかった。

 もちろん今はEの解釈を認めるにやぶさかではない。

 これはつまり他の文章を読むことによって得た小林の「美学」に対する見解が枠組みとしてはたらくことではじめてEの解釈の確からしさが保証されるということだ。だからFの解釈に整合性を持たせる①②の解釈は、それはそれで可能なのだ。筋が通ってさえいれば、それを不正解などとは言えない。


 その上で③をEとして、そこへ向かっていく論理を構築する。

 現在の授業者の納得はBCEだ。この支持者は多くない。今回の回答では10名だった。

 さて、授業者はどう考えているか。

 「子どもらしい疑問」がB「幼稚で取るに足りない下らない疑問」だから、自分は「迷路」に押しやられる。ただ、その疑問の元になっている「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」=C「美しさをつかむに適した心身のある状態」には「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」。だから「押されるままに、別段反抗しない」。

 つまり「美学の萌芽」こそ「上手に思い出す」ことができている「状態」だと解釈しているのだ。

 だが、「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態への信頼と、「美学」という行為は別だ。「美学」は、そうした「状態」を観念によって分析しようとする。それが「迷路」だ。そんな「化かされている」ような連中に筆者は与するつもりはない、と宣言しているのがE「美学に行きつくつもりはない」というわけだ。

 となると「美学/美学の萌芽」という対立は「解釈する/思い出す」の対立に連なっているということになる。


 この部分はまだ小林自身が手探りで論を進めているところで、対比すら明確ではないから、読者は容易に唯一の正しい解釈には「行きつかない」し、それは全体の解釈にとってどの程度重要かもわからない。

 「美学」と「美学の萌芽」はむしろ同じ側であるように解釈するのが普通で、そこを対立させるなんて無茶だろ、という感想は当然あってもいい。「美学の萌芽」が良いのなら「美学」も良いのだろうし、「美学」が悪いのなら「美学の萌芽」も悪いのだ、と。

 もちろんそうした見込みは当然あってもいい。ただ、授業者の現状の納得はこうだということなのだ。


2024年6月19日水曜日

無常ということ 5-美学には行き着かない 3

 「だが僕は決して美学には行き着かない」の解釈の小論文課題は6割強の提出率だった。これは十分だと考えるべきか? 授業中に考え、話し合うことが既に有意義な学習ではあるのだが、文章にまとめるというもう一手間がまたさらに有益なのだが。


 回答には、例の三カ所の解釈の分岐のどちらを選ぶかも聞いた。

「無常ということ」解釈課題の提出者が、例の三つの分岐でどちらを選んだかを集計してみた。

「子供らしい」という形容は

A 肯定的なニュアンス 102人

B 否定的なニュアンス 92人


「そういう~呼ぶべき状態」は

C つかむに適した状態 51人

D 迷路に押しやられている状態 143人


「美学には行き着かない」は

E 行き着くつもりはない 87人

F 行き着けない 107人


 さらにこれらを組み合わせると8通りの解釈になる。8つそれぞれに支持者がいる。


ACE 5人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


ACF 17人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


ADE 30人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


ADF 50人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


BCE 10人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


BCF 19人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


BDE 42人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


BDF 21人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


 こんなことになるのでは、まともなコミュニケーションは期待できない。

 小林秀雄には大いに反省してもらいたい。どんな高尚な思想を語ろうが、伝わらなければしょうがない。

 こういう韜晦が何やら高尚なことを言ってそうな雰囲気を醸し出してありがたみを増しているのも困ったものだ。


2024年6月13日木曜日

博士の愛した数式 3 場面の意味

 今回の小説読解では、高校3年目にして初めて、最もありふれた条件で「登場人物の気持ち」を考える。

 だがやはり今回もまた、考察には複数の抽象度の問題を重ねるのが有益な体験となる。「気持ち」=心理を考えるだけでなく、その「意味」を考える。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたか」「父親はなぜ突然蜉蝣の話をしたか」などという問いは、最終的には作品のテーマとして語られなければならない。それがその作品にとっての最大にして最低限の問いならば。

 すなわち、考察対象とする、家に戻ってからの場面がどのような場面であると捉えれば良いのかを抽象化して表現しようというのだ。


 この点について、8クラス目のG組の授業でとうとうヒントを出してしまった。どうにも埒が開かないのを見かねて。

 ということで全クラスにこの情報を公開する。


 ルートの心理を分析する上で考慮すべき問題を整理しよう。

①なぜ「とたん」なのか(態度の急な変化のわけ)?

②なぜすぐに理由を言わなかったのか?

③なぜ「私」言ったときにすぐには怒らなかったのか?

④涙についての形容はどういうことか?

⑤野球中継が意味するものとは?

 ⑤が意味するものは比較的明らかだ。タイガース選手の劣勢からのサヨナラ勝ちという展開は、明らかに事態の好転を意味している。つまりこの場面は全体としてハッピーエンドへ向かって決着していると読める。

 必ずこのことを確認しておく必要がある。つまり、ルートの怒りが母親に向かって爆発することは、物語にとって何かしら「良いこと」なのだ。


 もうひとつ。④も考えやすい。

 ④「かつて目にした」「涙」と目の前の「涙」の違いは何か?

 今までの涙は「私が拭うことのでき」る「涙」であり、この時の「涙」は「拭うことのできない場所」で流される「涙」だ。では「私が拭うことのできない場所」とはどこか?

 どこで流される涙ならば「拭うこと」ができるのか?


 それが「私が拭うことのできない」涙であることは、このシークエンス全体がハッピーエンドであることから考えて、何かしら好ましいことであるに違いない。

 そしてそれは「男の涙」と形容されている。

 ここから考えられる「この場面の意味」は明らかだ。


 この場面の「意味」を1語ないし2語で表現してごらん、と問うたところ、G組N班から「ルートの自立」というフレーズが挙がった。

 そう、この場面はルートの「自立(あるいは成長)」を意味していると考えられる。

 この言葉が想起できるかどうかが、論理を組み立てる上で決定的に重要なのだ。


 だが、このルートの怒り・悲しみがどうして「成長・自立」を意味していると考えればいいのか、その論理を構築するのは、それはそれでたやすくはない。


2024年6月12日水曜日

博士の愛した数式 2 考える手がかり

 ルートの「気持ち」を考えてみよう。

 単に「怒り」というなら、次の一節がその端的な説明になっている。

「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」

 これが具体的にどの場面のことを指しているかはもちろん把握していなければならない。「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面だ。このやりとりがルートの「怒り」の伏線となっていることは把握しておく。

 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。

 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものだ。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めている。

 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。それは、そんなに単純な感じではないな、という違和感だ。

 その違和感とは何か?

 言い換えれば、何に答えられなければこの部分のルートの心理が説明できたことにはならないか?


 この違和感のわけを言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難だ。

 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか?


 さらに、なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?

 同様の問いとしてこの疑問は次のようにも言える。

 理由があるのなら、問われてすぐ答えればいいのに、なぜこの後1ページあまり黙って泣いたりしているのか?


 さらに、考える材料として注目したいのは、ルートと「私」のやりとりに、随時挿入されるラジオの野球中継だ。

 これが注目に値する要素だということは意識できなければならない。小説や詩を読解する上では必須の作法だ。

 この野球中継はルートと「私」の会話の無意味な背景ではない。どうみても意図的な挿入だ。といって「不機嫌の原因がタイガースでないのは明らかだった。」「ルートの耳には何も届いていなかった。」とあるから、この野球中継が直接、ルートや「私」の心情に影響しているというわけではない。

 むしろこれが意味するものは、読者に向けて物語の方向性を指示することだ。

 とはいえ単純に事実関係は理解しておきたい。

 「私」は不機嫌なルートの態度に「タイガース、負けてるの?」と問う。ここからは、ルートがタイガースに肩入れしていることが確認できる。

 続いて試合の状況。この場面の序盤で、ゲームは九回表、巨人とタイガースは同点。ルートは不機嫌の理由を聞かれて、答えることなく怪我をした手を机に打ち付ける自傷的なふるまいをする。中盤でタイガースの「亀山」がバッターとなる。「亀山」が「桑田の球威に押され……二打席連続三振を喫しています…」という状況を伝えるアナウンスが挿入されたあと、ルートは「声も漏らさず、体も震わせず」「涙だけをこぼしていた」。タイガースは「負けてる」わけではないが、劣勢だ。

 そして、ルートの怒りの訳がルート自身の口から語られた後、それに対する「私」の反応についての説明・描写を一切差し挟まずに、次のようにこの章は終わる。

亀山が二球目を右中間にはじき返した。和田が一塁から生還し、サヨナラのホームを踏んだ。アナウンサーは絶叫し、歓声はうねりとなって私たち二人を包んだ。

 この描写は何を意味しているか?


 もうひとつ。ルートの流す涙について述べた次の一節。

けれど今回は、かつて目にしたどの涙とも違っていた。いくら手を差し出しても、私が拭うことのできない場所で、涙は流されていた。

 問題は「私が拭うことのできない場所」という一種の比喩表現が意味しているものをどう捉えるか、だ。


 これらは「手がかり」であり、同時に、ルートの心理を説明し得たというための関門でもある。これらの問題に答えられていることが、ルートの心理を分析できていると言える条件だ。


博士の愛した数式 1 「気持ち」を考える

 販売促進のために最も効力のある文学賞といえば、「直木賞」「芥川賞」とともに、まず「本屋大賞」が挙がる。毎年ニュースになる。

 その第1回と第2回の受賞者の作品を、今年は授業で読む。第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」を発展現代文で読んだ。そして総合現代文の方で、第1回受賞作品、小川洋子の「博士の愛した数式」を読む。

 「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。

 たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはそれを神話や寓話のように読む必要がある。そして、その象徴性についての考察へと展開した。

 一方「博士の愛した数式」では、小学生の時からさんざん授業で訊かれてきた問い、「この時の登場人物の気持ちを考えよう」という作法が適切だ。

 「博士の愛した数式」は、完結した短編ではなく、長編の一部、しかも今回読むのはその真ん中あたりの一節だ。したがって、小説全体をメタな視点から捉えることはしない。「どういう枠組みで読むか」は問題にならない。

 また、「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだが、小説の世界が我々の現実とかけ離れたところ(平安時代とか中国とか夢の中)に設定されているわけではない。現代の日本だ。だから、この小説を読むには、その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい。

 こういう作法で小説を読解をするのは、3年目にして初めてだ。


 何を取り上げるか?

 この切り取り方で提示して考察するとすれば、焦点は明らかだ。

 ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わばこの部分における物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。

博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。

 ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面だ。

 ここに見られる「ルート」の奇妙なふるまい、感情の発露をどう受け止めれば良いのか?


弟に速達で 4 イメージを拡げる

  初孫の誕生にあたって、ノブコは「はるか」という命名案を息子に提案する。

 それを聞いたもう1人の息子である語り手は北へ行くことを「はるか」の父である弟に伝える。速達で。

 そこにはどのような論理的な展開があるのだろう?


 さて、思考を誘導するため、さらに糸口を提供しよう。

 「おれ」は三十才まで何をしていたか?


 「正解」はない。唯一の限定ができる条件はたぶんない。自由に想像していい。

 メジャーデビューを目指してバンド活動していた。

 俳優を目指して劇団に所属していた。

 小説家を目指して投稿を繰り返していた。

 研究職を目指して大学に残り続けていた。

 起業家を目指して会社設立を企画していた。

 NGO組織でボランティア活動をしていた…。

 こうした「自由」な想像は、どこまでが許されるのか? どのような条件によって限定付けられるのか?

 例えばフリーターは?

 ニートは?

 さらにいえば、「病気で入院していた」「犯罪を犯して収監されていた」は?


 もう一つ。同じように詩のイメージを拡げるような思考をしてもらおう。

 「おれ」は北に何をしに行くのか?


 これもまた詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい。

 流氷の軋むオホーツク海を見る。

 見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。

 大雪山頂から石狩川を見下ろす。

 オーロラの空の下に立つ。

 脱サラして北海道で牧場を営む。

 どこまでの想像なら「小さな夢を/見てくる」の範囲内なのか?


 この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。「小さな」を文字通りとるならば一時的な旅行であるように感じられるし、自らの夢に対する謙遜、自己卑下ならば永住を前提にしていてもいい(いや、それだと「電話はかけない」が弟との絶縁を意味してしまうからだめか)。

 さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。


2024年6月11日火曜日

弟に速達で 3 「すぐに」とはいつか?

  さて、この詩を読んだというため答えなければならない、最低限にして最大の問いは何か?

 毎度の例で言えば「羅生門」における「下人はなぜ引き剥ぎをしたのか?」であり、「山月記」における「李徵はなぜ虎になったか」であり、「こころ」における「Kはなぜ死んだか」だ。それに納得できれば、とりあえずはそれを読んだことにはなる、という問い。

 同様の問いをこの詩について考えるなら「なぜノブコは『はるか』という名を提案したのか?」「なぜ語り手は北へ行くのか?」「なぜ北から電話をかけないのか?」「なぜ速達なのか?」…。


 だがこの詩におけるこの問いは、上記の小説よりは「I was born」読解の際に立てた問いに似ている。

 「I was born」では「なぜ父は蜉蝣の話をするのか?」が読者に共通した疑問ではある。だがこの問いは、読解にとって有効にはたらかない(なぜかという説明は割愛する)。

 そこで立てた問いは「5聯と6聯はどのような論理関係なのか?」だった。そのような問いに拠ってしか「なぜ話したか?」は考えられないのだ。

 「弟に速達で」も同様。上記の疑問以外に、多くの読者に共通した疑問として浮かぶのは「なぜ老眼鏡を思い出したのか?」のはずだ。

 だがこの疑問が上のいくつかの問いよりも重要であるとは言えない。上の問いもまたそれぞれに重要な疑問ではある。

 だが「なぜ~思い出したのか?」が重要である訳は、この問いの形ではなく、むしろ「I was born」のような問いの形で表されるべき問題の、具体的な糸口として、この「なぜ」型の疑問が想起されるからだ。

 すなわち問題は、この詩における3聯の意味だ。

 2聯から3聯への展開、3聯から4聯への展開には、当然と言うには抵抗のある飛躍がある。この論理的な関係こそ、この詩の読解の鍵となる謎だ。

 それを、具体的なレベルで問うたのが「なぜ~思い出したのか?」(3聯)であり「なぜ北へ行くのか?」(4聯)だ。

 だが、どちらも、それを登場人物の心情レベルでのみ考えるべきではなく、詩の論理として考えるべきなのだ。


 さしあたり「なぜ思い出したのか?」に答えてみよう。
 「なぜ思い出したのか」を説明するということは、それを思い出させる契機が何であるかを明確にし、それと老眼鏡の想起の因果関係を説明するということだ。その契機は無論2聯から読み取るべきだろう。そのようにして2聯と3聯の関係を明らかにする。
 それは「なぜ語り手は…」という問いでもあるのだが、同時に「なぜ作者は語り手に老眼鏡を思い出させたのか?」という問いでもある。

 さて、考える糸口を提供しよう。
 思い出す誘因と想起の因果関係を捉えるうえで、何と何が連続しているのかを明確にしておきたい。
 「すぐに」とはいつか?
 「(おれは)すぐに(思い出した)」とは、具体的にいつ、何の直後なのか?

 実はこれは案外に即答の難しい問いだ。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
 契機はむろん姪の名付けについての話題だ。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
 「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えは間違っていないが不十分だ。
 語り手はそれを誰から、いつ聞いたのか?

 二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「~そうだな」という伝聞形からすると、その電話のことを、語り手はどこかで知ったのだ。
 弟から? 母親から? それ以外の第三者から?
 少なくとも「思い出した」のは、母親が「いった」時ではない。母親は電話で弟に「いった」。そのことを、後刻、語り手は知ったのだ。それはいつか?

 この命名が話題に上った「電話」とは、おそらく娘の誕生を弟が母親に報せた電話であろう。当然、懐妊自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母はひそかに温めていた命名案を弟に提示したのだ。
 そのことを語り手に知らせたのは弟ではない。「考えたそうだな」という伝聞形は、それを知らせたのが弟であれば、当人に返すはずのない言い方だ。
 たとえば弟の奥さんが語り手にそのことを話した可能性はある。だがここで、言及されていない登場人物がそれをしたのだと考えるのはあまり適切ではない。言うべきことは作品中に言われているはずだから。
 とすると、このことを語り手に伝えたのは母親だと考えるのが自然だ。彼女がそれを電話で弟に言ったことはまちがいないとして、それ以外に弟と彼女が会っているかどうかわからない(「最近会ったか?」)くらいの情報の不確かさは、この話を母親から聞いたこと自体も、電話での会話だという可能性が高い。
 以上の推論から、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨)したということを、後で母親から(おそらく電話で)聞いた直後「すぐに」だというということになる。電話をかけたのが「おれ」なのか「ノブコ」なのかはわからない。弟と母親の電話の当日かもしれないし、翌日かもしれない。赤ん坊の名前がどうなるかが未確定なのだから、それほど時間は経っていないと考えるべきだろう。
 つまり「私は『はるか』って名前がいいんじゃないかしらって、あの子(弟)に言ったのよ」などと母親自身が電話口で語るのを語り手は聞いたのだ。
 そして、語り手は老眼鏡を思い出す。
 そこにはどのような機制がはたらいているのか?

2024年6月9日日曜日

弟に速達で 2 初孫の誕生

  この詩の冒頭、なぜ一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?


 そもそも自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶのはなぜか?

 「おばあちゃん」とは孫の存在によって相対的に規定される呼称だ。家族間の呼称は、その家族の最年少の構成員に合わせて変化する(この説明を最初に公的に発表したのは、去年言語論で読んだ鈴木孝夫だそうだ。)。

 こうした家族間の呼称は日本語に特有の言い方だという。


 つまり、この言い直しが示しているのは、「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだという設定だ。

 今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのだ。

 そこから、「はるか」に兄姉はいないこと、そして語り手には子供がまだいないことがわかる。語り手と弟が二人だけの兄弟なのかどうかは不明だが(おそらく他の兄弟はいまい)、彼らにも恐らく子供はいないということになる。

 この解釈による「初孫誕生」という背景設定は、先の「父の再婚」や「曾祖母の存命」という設定に比べて、わざわざ言及しないことが不自然でない程度に自然であり、かつこの詩全体の主題解釈にかかわるからこそ整合性が高い。


 さて、授業ではもうひとつ、Oさんから別のアイデアが提示された。

 「おれ」には子供がいるのだ。だから「おれ」は「おばあちゃん」という呼称に慣れており、だからつい「おばあちゃん」と言ってしまう。だが弟にはこれまで子供がないから、「おばあちゃんとは」という確認が必要なのだ。

 これは「父の再婚」や「曾祖母の存命」に比べれば想定されても良い自然さがある。弟にとっての初めての子供だという点は「初孫説」と共通している。

 だがどちらが適切かと言えばやはり「初孫説」だろう。

 単なる突っ込みとしては、「おれ」が妻子のある身で、「北」に「夢」を見に行くという無責任さは何事だ!? と言いたくなる、という問題もある。

 あるいは建前を言えば「速達」という文面で、うっかり相手がわかりにくい、自分だけが慣れた言い方をして、わざわざそれを確認することも不自然だ。

 さらに言えばこの「おばあちゃん」は、この話題を共有する弟と自分の間での共通認識として使われるべき発語だから、2人にとって「ノブコちゃん」がこれから「おばあちゃん」と呼ばれることになるのは、2人に共通した事態なのだと考える方が詩の読解としてふさわしい、と言える。


 この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのだ。

 こうした細部の設定の解釈は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みだ。

 授業で詩を読むことに意義があるのは、こういう読みの更新が起こることが期待されるときだ。


弟に速達で 1 「おばあちゃん」とは

  今年度、総合現代文では、詩を取り上げる授業は予定していない。

 一方発展現代文では、総合現代文の方で全員対象に取り上げはしないが、しかし捨てるには惜しい「国語」的体験として、ディベート創作を行う予定だし、も読む。


 辻征夫「弟に速達で」は以前使っていた教科書に収録されていた詩で、授業で読解していくと、そこには意外な豊かな読解の世界が広がっていることに驚いたものだった。

  弟に速達で

                                  辻 征夫 

さいきん

おばあちゃんにはあったか?

おばあちゃんとは

ノブコちゃんのことで

ははおやだわれわれの


まごがうまれて

はるかという名を

かんがえたそうだなおばあちゃんは

雲や山が

遠くに見える

ひろーい感じ

とおばあちゃんは

いったのか電話で


おれはすぐに

すこしゆるゆるになったらしい

おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した

あれはおれが 三十才で

なんとか定職についたとき

五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ

おれのはじめてのおくりもので

とてもよろこんでくれた

なにしろガキのころから

しんぱいばかりかけたからなおれやきみは


じゃ おれは今夜の列車で

北へ行く

はるかな山と

平原と

おれがずっとたもちつづけた

小さな夢を

見てくる

よしんばきみのむすめが

はるかという名にならぬにしろ

こころにはるかなものを いつも

抱きつづけるむすめに育てよ


北から

電話はかけない


 授業で読み込むまで、個人的には、この詩に何かしら好もしい印象を抱いてはいたものの、とりわけわからないところはない、と思っていた。

 それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益ではある。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。

 だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。だが、どんな感じ? を言葉にするのはそれほど簡単なことではないし、さらに、どこからそんな感じがした? という機制を分析するのはさらに難しい。


 授業者には、この詩は、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがある詩だと思われる。

 たとえば「ははおやだわれわれの」の不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何箇所もある)。

 「ははおや」を「ちゃん」付けで呼び、自身を「おれ」と呼ぶ。「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。

 そうしたユーモラスな調子の一方で、弟には「おまえ」ではなく「きみ」と呼びかけ、「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと鮮やかに詩を断ち切る。夢を見るために北へ向かうなどという行為は、格好良いというより、下手をすれば滑稽になりかねない。それをユーモアに転換させる軽やかな身のこなし。


 こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、いわゆる「鑑賞」と呼ばれる行為であり、それは詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。

 それはそれで楽しく、有意義なことでもあるが、今回は認識の共有を目指して、テキストを読解する。

 このテキストは、何を語っているか?


 さて、考える糸口も提供する。

 まずはすぐにわかることを確認する。

 ここに登場する人物はどういう関係になっているか?


 まずは語り手の「おれ」と、その「弟」であるところの「きみ」。

 2人の母親である「ノブコちゃん」。

 そして弟の娘である「はるか」(という名になるかどうかはまだわからないが)。



 もちろんこんなことは、誰でもわかるべきことだ。

 だがこれを問うのは、誰でも一瞬混乱する要因もあるからでもある。3・4行目「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで/ははおやだわれわれの」のくだりだ。

 「おばあちゃん」が「ははおや」であることを理解するのはそれほど難しくないが、「ノブコちゃん」というくだけた言い方が違和感として、いくらか理解をさまたげる。

 とはいえつまるところ理解はできる。4人がそういう関係であることは。

 だが問題はそこではない。

 奇妙なことは、次のような疑問が生ずることだ。

 なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?


 この問いを、疑問として自覚することは難しいはずだ。読者側から言うと、詩行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われて一瞬混乱する。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。祖母なのか母親なのか、驚きとともに一瞬混乱はするものの、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではない。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
 だがこうした納得の陰に隠れて、本当は生じなければならない疑問が看過される。それは三行目から四行目の展開の不自然さだ。
 よく考えると三行目「おばあちゃんとは」は奇妙だ。普通、聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりはしない。だから、「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが、相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は普通ではない。
 だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、解釈の可能性の幅は比較的開かれた状態になっている。それを解釈していく中では、その不自然さに気づきにくい。自然と不自然を分けるほどの情報が未だ得られていないからだ。
 といってこの「おばあちゃん」の特定、言い換えが、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定なのだから。
 とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な状況であるということだ。
 それはどんな場合か?

 可能性はいくつか考えられる。だがそれらのいくつかは読解としては不適切だ。
 難しいのは、それが不適切である理由を自覚的に述べることだ。
 いくつかの解釈について検討しよう。
①「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ。
 この解釈に反駁してみよう。
 弟の奥さんの母親もまた「はるか(仮)」にとっては「おばあちゃん」には違いない。だが、語り手にとっては彼女は単なる他人だから、弟ならともかく語り手が「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。

②「はるか」にとっての曾祖母が存命中。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ。
③「おれ」と弟には本当の母親と育ての母親の二人がいる。詩には登場しない父親は、2人の母親と離婚し、まだ2人が小さいうちに「ノブコ」と再婚したのだ。先妻は離婚後どこかにいて、彼女もまた「はるか」からみれば血のつながった「おばあちゃん」なのだ。
④2人は養子に出されて、「ノブコちゃん」はその養子先の母親なのだ。生みの親はどこかで存命中。

 これらはいずれも論理的には可能な解釈だ。だがそのように考えるのは不適切だ。なぜか?

 書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと一応は考えるべきなのだ(毎度の「登場人物が超能力者異星人異世界人である可能性はとりあえず考える必要がない」というやつだ)。
 もし父親の再婚や曾祖母の存命によって、その「おばあちゃん」と「ノブコちゃん」を区別する必要があったのだとすれば、それが作品中に書かれないはずはない。そのように書かれていない特殊な設定を根拠とするのは、不必要で不自然な解釈なのだ。
 では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か?

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