エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?
その「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。
「体を売る」のは、具体的には、いつ、どこでか?
上の問いに対する答えを念頭に置いてA「衣服」、B「母親の態度」、C「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。
答えは「今晩、エリスの家で」だ。
「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。それは明日や明後日のことではない。この後、これからの予定だったのだ。
そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。
場面は、豊太郎の仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」だ。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。
「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Aのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。
では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?
現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。
だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。
例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。
あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。
もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。
そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?
その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。
こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。
では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?
それこそがBの室内の描写だ。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。
そこにはベッドの存在が明示され、その傍らにエリスは恥ずかしそうに立っている、と描写される。
「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をBの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった(最初から、問題は「部屋」だという指摘をした人がいたクラスもあったが、曖昧にぼかして過ごした)。
これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいる。
a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。
クロスワードパズルやナンクロ(数独)では、どこかが決まらないと他の空欄が決まっていかない。だからどこかの選択肢を特定すべきなのだ。
ここで最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」だ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定される。
室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。
では「価高き花束」の出所については?
花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。
だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。
それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。
そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。
お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。
それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。
さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者が多かったのは奇妙だった。
de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。
だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。
つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。
だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。
「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。
D「母親の態度」がそれを示している。
母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。
それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。
母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからだ。
だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。
当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。
一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。
一つ目は父親の遺体の存在だ。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎える、そしてその準備は母親がしているのだ、などと考えることができるか?
これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた。もっともな感想だ。
だが、だから場所の解釈を変えるべきだということにはならない。室内の描写の意味はそれ以外の解釈を思いつかないかぎり、それを意味していると考えるべきなのだ。そこを根拠としてまず「エリスの家で」説、つまりこの家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーが解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。
そう考えたうえで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。
そうした心理的抵抗とともに、もう一つ、この想定の難点はある。
この想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!
この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。
だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。
だから、この場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をした、この母親の恐るべき変わり身に驚くべきなのだ。
この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。
「外にいた」のは、なるほど母親と言い争いでもして家を飛び出したからなのだが、それはいつかくる「恥なき人とならむ」状況へと娘を追いやる母と言い争って外にとび出したというだけでなく、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきたのだ。
つまり最初の選択肢ではaが最も近いが、「母から逃げて」というよりは「家から逃げて」とでも言うべきだろう。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。
そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。
さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?