2024年7月10日水曜日

無常ということ 6-美学には行き着かない 4

 二つの授業でいくつもの読解に小論文の課題を設定しているせいで、それぞれの題材の考察の結論をブログ上で提示する前に、次々と次の題材の話に切り替わっている。

 それぞれの話題の記事を続けて読む際は「ラベル」で絞って。

 さしあたり「無常ということ」の決着をつける。


 「美学には行き着かない」とはどういうことか?

 この部分の解釈には個人的な思い出がからんでいる(この話をしたクラスとしていないクラスがある)。

 「無常ということ」は長らく教科書に載り続けている文章だから、授業者もまた高校生のときにこれを授業で読んだ。この部分の解釈にまつわる不一致は、実は高校生の時の授業者の体験なのだ。

 国語の授業は、しばしば授業とは別の本をこっそり読んでいたりもして、比較的起きていた(他の教科の授業はよく寝ていた)。だから国語の授業の内容は比較的追っていたと思う(起きていたので)。

 そして、この部分について先生が語る解説に違和感を覚えたのだった。

 何がどう違っているかはわからないが、その違和感は看過しがたく、遠慮がちにそのことを表明してやりとりするうち、次第に先生の説明に対する違和感の焦点が③のEFの解釈の違いであるらしいことがわかってきた。当該授業と、さらに次の授業1時限を費やして議論したが、決着をみなかった。

 この理由は、つまりこの問題には、どちらかを「正解」とする根拠が、この文章からは導けないということだと現在の授業者は考えている。最初から「正解」はない、と言っているのはそのためだ。

 ただ、この授業の担当教師は、年度末の最後の授業(3年だったから、高校の最後の国語の授業)でこの件に触れて、生徒が授業の内容に質問を投げかけてくることさえ稀なのに、まして先生の言うことは違っているなどと生徒が言ってくることはめったにないから、たいそう面白い事件だったという話をしたのだった。彼がそんなふうにこの件を受け止めていたことなぞ全く知らなかったから、その表明には驚かされたが、同時にその柔軟な姿勢に心を打たれたのだった。


 さて結局どう読解するか。

 議論をすればするほど、ある意味では理解が深まる。同時に議論すればするほど、結局わからなくなる、とも言える。

 それほどに、この部分の解釈はすっきりと腑に落ちることがない。

 ただ、選択肢にした問いのうち、③だけは結論を決定できる。

 だがそれは、上に述べた通り、この文章内の情報では不可能だ。その意味では①②と変わらない。

 じゃあなんで③だけが?

 ③についての結論はEだと言っていい。だがそうだと言いうる根拠はこの文章の論理にあるわけではなく、例えば「無常ということ」という連作の別の文章、「当麻(たいま)」の次の一節に拠る。

僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確めた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」 美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから、彼はさう言ってゐるのだ。

 この中の〈美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。〉はとりわけ人口に膾炙した一節で、あちこちでよく引用される。

 ここからは次の対比が抽出できる。

「花」の美しさ/美しい「花」

     観念/肉体

 そしてここに書かれていることは「無常ということ」にそのまま通じている。「解釈する/思い出す」の対比だ。

 つまり、「美学者」はありもしない「観念の曖昧さに就いて頭を悩ま」していて、それは「化かされている」のだと小林秀雄は言う。「無常ということ」の「多くの歴史家」が「一種の動物にとどまる」というのと同じような揶揄だ。

 とすれば、小林が「美学には行きつかない」というのは、E「行くつもりがない」ということなのだ。

 我が高校時代の先生はおそらくこのことを知っていたのだ。だがF「行き着けない」=「思い出せない」という意味で解釈していた授業者には、その説明は腑に落ちるものではなかった。

 もちろん今はEの解釈を認めるにやぶさかではない。

 これはつまり他の文章を読むことによって得た小林の「美学」に対する見解が枠組みとしてはたらくことではじめてEの解釈の確からしさが保証されるということだ。だからFの解釈に整合性を持たせる①②の解釈は、それはそれで可能なのだ。筋が通ってさえいれば、それを不正解などとは言えない。


 その上で③をEとして、そこへ向かっていく論理を構築する。

 現在の授業者の納得はBCEだ。この支持者は多くない。今回の回答では10名だった。

 さて、授業者はどう考えているか。

 「子どもらしい疑問」がB「幼稚で取るに足りない下らない疑問」だから、自分は「迷路」に押しやられる。ただ、その疑問の元になっている「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」=C「美しさをつかむに適した心身のある状態」には「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」。だから「押されるままに、別段反抗しない」。

 つまり「美学の萌芽」こそ「上手に思い出す」ことができている「状態」だと解釈しているのだ。

 だが、「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態への信頼と、「美学」という行為は別だ。「美学」は、そうした「状態」を観念によって分析しようとする。それが「迷路」だ。そんな「化かされている」ような連中に筆者は与するつもりはない、と宣言しているのがE「美学に行きつくつもりはない」というわけだ。

 となると「美学/美学の萌芽」という対立は「解釈する/思い出す」の対立に連なっているということになる。


 この部分はまだ小林自身が手探りで論を進めているところで、対比すら明確ではないから、読者は容易に唯一の正しい解釈には「行きつかない」し、それは全体の解釈にとってどの程度重要かもわからない。

 「美学」と「美学の萌芽」はむしろ同じ側であるように解釈するのが普通で、そこを対立させるなんて無茶だろ、という感想は当然あってもいい。「美学の萌芽」が良いのなら「美学」も良いのだろうし、「美学」が悪いのなら「美学の萌芽」も悪いのだ、と。

 もちろんそうした見込みは当然あってもいい。ただ、授業者の現状の納得はこうだということなのだ。


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