「暴力的な主体化の問題性」とは何か?
しばらく話し合って、問題点が見えてきただろうか?
こういうときは問題を選択肢のあるような問いに置き直すことも有用だ。
どうやって?
「主体化」は「主体化する」なのか「主体化される」なのか?
「主体化」とは「主体になる」なのか「主体にする」なのか?
もちろんこれらは主語と目的語を入れ替えて、同じ意味を示すように言い換えることができる。
だが、誰が誰を「主体にする」のか、という問題は選択肢として分岐する。
- AはBによって主体になる=AはBに主体化される
- BがAを主体にする
AとBには何が代入されるか?
こういうときはゆめゆめ、全員がそれぞれの解釈をまず脳裏に描き、それを提示しあって虚心に検討しなければならない。
自分が話し合いの中でしていた「主体化」の説明はどれだったか?
自分の考えが曖昧なうちに話し合いに入ると、最初に話し出した者の考えに引っ張られて、それとは違ったふうに考えていた自分の考えが霧散してしまう、ということが起こりがちだ。
すべての選択肢について、それを支持する者がいていい。これはそういう問題だ。班の中で説得力のある人の選んだものを「正解」とする必要はない。これは、唯一の正解にあっさりとたどりつくような問題ではないのだ。
その上で、考えるべきなのはどれが正解かではなく、分岐した解釈同士の関係だ。
さてその「主体化」が「暴力的」とはどういうことか?
「暴力的」という言葉は文中ではここで初めて登場する。何を指して「暴力的」と言っているかという把握にも解釈の余地がある。
さて「暴力」について選択肢のあるような解釈の可能性を考えるならば、「主体化」と同じく、次のような問いにしてみればいい。
誰の誰に対する「暴力」なのか?
文中には、様々な「暴力」が語られている。直接「暴力」という言葉が使われていない部分でも、「殺す」「恐怖」「苦痛」「加害」「抑圧」「耐えがたい」など、「暴力」に結びつきそうな表現は頻出する。
だがそれぞれが何を指しているかは充分に文脈を捉える必要がある。
そして「主体化」と同じように、それら複数の「暴力」同士の関係性について考える。
以上のような要素の検討に基づいて「暴力的な主体化の問題性」について捉えよう。
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