岡真理の「虚ろなまなざし」を読む。
岡真理は慶應大や一橋大他、国公立大や有名私立大の出題もある注目の論者。専門がアラブ文学ということで、第三世界に関する、文化的多様性、文化相対主義といったテーマの文章が取り上げられることが多い。
「虚ろなまなざし」もまた、そういった問題を取り上げているのだろうか?
確かにアフリカにおける度重なる紛争の結果として生じた難民問題・飢餓の問題に言及してはいるが、論じている問題の焦点はそこではない。
では何か?
題名の「虚ろなまなざし」とは何を意味しているか?
さて、最近の授業では毎度、何を考えるべきか? と問うている。問われて答を探すより、まず問いを立てる。何が考えるに値する問題なのかを見つけることはきわめて重要だ。
文章全体の読解は例によってスキーマの問題なので、これはその時が来たら考えるとして、まずは考えるべき一節を文中から見つける。
初回授業では、みんなに片っ端から聞いてみたのだが、残念ながらこちらの想定している一節を提示する人は学年で数えるほどだった。
まあ、いろんなところはいろんな意味で気になったり、考察しがいがあったりするかもしれない。だがそれらの問題のほとんどは、次の一節を考察することに含まれている。授業者自身も、授業を繰り返しているうちに、この一節について考察することが、この文章全体を考察することになるのだと、次第に気づいていったのだった。
考察するのは次の一節。
「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性
この一節が意味することを徹底的に考察する。
本文では「暴力的な主体化の問題性とは」に続く部分がその説明なのだから、それを適切に捉えればいいだけだとも言える。テスト問題ならば、理解がどうであれ、まとめてしまえば解答は作れる。
だがテスト問題に回答できることと、理解しているということは必ずしも一致しない。この一節が腑に落ちるように思えるかといえば、そうではなかろう。
このことをちゃんと考えるためには「問題性」の前にまず「暴力的な主体化」とは何なのかを捉える必要がある。それが「問題」だと言っているのだから。
では「暴力的な主体化」とは何か?
これは決して自明なわけではない。
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