さて、「主体化」と、三つのパターンによって関係する「暴力」は、この文中でどのように語られているか?
いくつもの「暴力」が文中に登場する。その暴力の「方向」(文法でいう「敬意の方向」的な)を明らかにしよう。それは誰に誰に対する暴力なのか。
また、その暴力は「主体化」という変化に対して、「原因」となるのか「結果」なのか、あるいは「主体化」というプロセス自体が「暴力的」と形容するしかないような変化なのか。
さしあたって三箇所の「暴力」の記述について注目する。
ア 難民の子どもの、その虚ろなまなざしである。そのような視線にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。
イ そのまなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいるからではない。
ウ なぜ私たちは、意味づけられない空洞が、かくも耐えがたいのか、一人の人間を暴力的に死に追い込むほどまでに?
それぞれの「暴力」の方向を確認しよう。
ア 「それ(少女)」→私たち
イ 状況(世界システム)→少女
ウ 私たち→カメラマン
アの「暴力的」はその「主体化」が引き起こす結果としての暴力、すなわちウをも指している形容だとも考えられる。だがさしあたり「トラウマ」という言葉を「暴力」によるものと考えると、ウではない「暴力」がそこには想定されている。
またウの「耐えがたい」はアの「トラウマ」を生み出す情動だが、ここでの「暴力」はカメラマンを「死に追い込む」ものを指していると捉えておく。
これらの「暴力」は先の「問題性」ABCとどのように対応しているか?
A.文字どおりの暴力性
B.少女の声の可能性の抑圧
C.私たち自身の加害者性の隠蔽
Aはウのことだ。
Bはアイウのいずれでもない。だが「抑圧」と言い、「可能性を全て奪う」という表現で繰り返されているBもまた明らかに「暴力」だと筆者には捉えられているはずだ。これをエとして取り立てておこう。
エ 私たち→少女
Cの「隠蔽」は暴力ではないが「加害者性」の「加害」は暴力を指しているから、Cはつまり暴力が隠蔽されるのは「問題」だと言っていることになる。
アはABCいずれの「問題」にも対応していないが、この一節の「暴力的」という形容は実はアを最も強く念頭に置いて付せられているとも言える(これは、ここを考える上での本質的な問題なので、後でまた論ずる)。
さて、これらの「暴力」と「問題」、そして「主体化」は、どのような関係になっているか?
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