前項の疑問①、なぜルートは急に不機嫌になったのか、について、教科書の解説書は次のように説明している。
博士と別れ、母子ふたりになったことで、それまで抑えられていたいらだちが抑えられなくなったと考えられる。
こういう思いつきやすい説明にとびついてはいけない。この説明が馬鹿げていることは、まっとうな小説読者ならば感じ取らなくてはならない。
前段落の「外食」のシークエンスでは、「ルートは大喜びだった」「満足していた」「ヒーローにでもなったつもりでいるらしかった。」「大威張りで」「素直におんぶをしてもらった」「夜の風は心地よく、おなかはいっぱいで、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。」と肯定的な表現が並ぶ。ここから、「それまで抑えられていたいらだち」を読み取ることはできない。それを読者に伝える描写はない。
したがって、このルートの怒りは単に上機嫌の演技の下に抑えていた不機嫌が露わになったとかいうことではない。むしろ、前段落の肯定的な表現、三人の間にもたらされた親和的な空気こそが、その後アパートに戻ってからのルートの不機嫌をもたらしていると考えるべきなのだ。
といって、博士に対する親愛の情が、博士を信用しなかった母親への怒りに変化したのだ、と言っただけでは、涙の訳がわからない。
では一体、この場面はどのような事態を表現しているのか?
前段の終わり「博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた。」という描写が表すものは何か?
ここでは「私」と博士が擬似的な「夫婦」のように描かれていること、とりわけルートが無防備な「子供」として描かれていることを読み取るべきだ。「運動靴はプラプラ揺れていた」とは、博士におぶわれて自分の足で歩かない子供の立場に甘んじているということだ。
母子家庭にあって必ずしも安楽な、子供という立場ではいられないルートにとって、それは心地よいものであるはずだ。
この心地よさは、なぜ「不機嫌」に反転するか?
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