「暴力的な主体化の問題性」というフレーズには、この文章全体で語られる問題群が凝縮している。だから4~5回の授業は、この問いについて考えるだけで終わった。
だが、前々回で示した「暴力」と「主体化」と「問題性」の因果関係の構造そのものを岡真理が示したかったとすると、この文章はあまりにわかりにくすぎる。すなわちそれはこの文章が、それそのものを読者に提示することを目的にしていないことを示す。
読者の方で再構成したのが前回の構造図であって、それを読者に示すつもりなら、岡真理はもっと手際よく、わかりやすく書くはずだ。
つまりこれは岡真理の主張の背景となる認識であって、この文章の主張そのものではない。
では何を主張しているのか?
今回この文章を読むのも、柄谷、小林、鷲田と読み継いできた一連のテーマの流れだ。
とすればこれもまた近代批判? だがどのような意味で?
例えば次のような一節を読み比べるだけでも、岡真理が柄谷と同様な問題意識を射程に収めていることは容易に見てとれる。
「虚ろなまなざし」
私たちが生きる、この地球社会に山積した問題の数々。民族問題、環境問題、南北問題、人権問題……それは、この世界に生きる私たち一人ひとりの問題でありながら、ほうっておいても、いつか、どこかのだれかが解決してくれるかのように、いつもは、他人事のように忘却を決め込んでいる私たち、これらの問題を紹介するテレビや新聞の特集や詳細なルポも、ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう
「場所と経験」
直観的に言えば、我々が新聞やテレビで知るような場所や事件はこういう空間に属しているように思われる。それは近所で見聞する事柄のようなリアリティを持たないし、肉眼で見るような切実感もない。その上、それは妙に国際的である。沖縄、ベトナム、ビアフラ、テルアビブ……これら各地で起こっていることに我々は均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起こっているからである。
ここに共通する問題意識とは何か?
確かに、世界に起こる国際紛争などの「問題」についてのルポルタージュを「ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう」ことが問題であることはわかる。だがそこからこれを、例えばメディアリテラシーの問題として捉えたり、広く世界の問題に目を向けようといった教訓に進んでも、「情報の一つとして消費してしまう」ことや「均質な関心を寄せる」ことにしかならない。
文章を読む目的は、それを「理解する」ことなのではなく、それを「使う」ことにある。ここまで論じてきた「比較読み」も「使う」ために読むことの一つの実践なのであり、「虚ろなまなざし」を、現代社会の問題を考える上で「使う」ことはその意味で妥当な扱いだ。
だが、その扱いは容易ではない。
例えば「虚ろなまなざし」から抽出されそうな「我々自身の『加害者性』に目を向けよう」などという教訓は容易く岡真理のいう「キャンペーン」に流れて「消費」されてしまうだろう。あるいは「場所と経験」を、「『真の知識』を得るためには、テレビで観るのではなく事件の現場に行くしかない」などといった主張をしているかのような、見当違いの解釈をすることに陥ってしまうだろう。
それぞれの文章をその内部で読むだけでは、例えば両者が「文学」について語っていることはわからない。「場所と経験」で最後に突然言及される「文学」は唐突に過ぎて何のことかわからないし、「虚ろなまなざし」の本文中には「文学」への言及はない。
だが、岡真理が批判するジャーナリズムやその享受者たる我々に対置するものとしてアラブ文学を専門家とする彼女が想定しているのは「文学」のはずなのだ。
そしてそれは柄谷が「見たものだけを見たということ」から出発するほかに不可能だと語る、その「文学」である。
「私たち自身の加害者性を隠蔽する」ことが問題だと岡真理は言う。ということは、私たちは自らの加害者性を自覚することが大切なのだ、と岡真理は主張していることになるのか?
それは確かに間違ってはいない。だが彼女はそのように表現されるお説教くさいお題目を唱えたいのか、と言えばたぶんちょっと違う。
あるいは世界のニュースを「他人事のように忘却している」姿勢が批判的に述べられている。ならば、少女についても自分のことのように考えるべきなのか?
だがそのような主張がカメラマンを死に追いやる「文字どおりの暴力性」を生んだのではないか?
「虚ろなまなざし」という奇妙な題名の文章が何を主張しているかということは、実は授業者にとっても難問だった。というか、授業で取り上げる前には、この文章は何が言いたいかわからないと感じていた。
それが腑に落ちたのは柄谷行人「場所と経験」と近い時期に読んで、両者が結びついたときだった。
二人がそれぞれの文章で主張していることは、実は同じなのだと気づいたのだ。
柄谷の主張を端的に言うならば「視たものだけを視たと言え」である。
これを言い換えると「視たものにもっともらしい意味づけをするな」である。
岡真理は何を主張しているか。
「『それ』の恣意的な主体化をやめろ」である。
「それ」の主体化がカメラマンを殺し、私たち自身の加害者性の隠蔽を招いているのである。
両者は同じことだ。つまり 意味づけ=主体化 である。
物言わぬ少女に声を当てることは、恣意的な「解釈」(小林秀雄)だ。つまり、声を当てる=主体化は「解釈」=「意味づけ」なのである。
とすると、題名の「虚ろなまなざし=それ」は「場所と経験」では何にあたるか?
いったん比較してみようという目で眺めてみれば、「虚ろなまなざし」の中の例えば〈私たちは「それ」を、この世界の中に、私たちとの関係性の中に―肯定的であれ否定的であれ―位置づける〉などという表現が、「意味づけ」「解釈」などといったかたちで柄谷、小林によって繰り返されていたことがただちに見てとれる。
柄谷は「意味づけ」の動機を〈もっともらしさを確保したい〉と言うが、それを岡は〈まなざしのその「虚ろさ」、意味の欠如、それが私たちを不安にする。〉と強調しながら反復する。
〈そこにあってしかるべき、『恐怖』や『苦痛』といった感情が表明されていないこと〉に耐えがたい我々は〈語れない少女に代わって〉少女の感じているであろう「恐怖」や「苦痛」を語らずにいられない。そうして語ることは、柄谷のいう〈知ったような気になっている〉ということだ。
既にはっきりしている。〈私たちが読み取り、同一化することのできるような、いっさいの意味を欠いていること〉=〈「それ」がまさに「それ」でしかないこと〉=「虚ろなまなざし」こそ「生きた他者」に他ならない。
その不安に耐えられない我々は「暴力的な主体化」によって立ち上がるが、それはあくまで「均質な空間で起こっている」ことに対して「均質な関心を寄せ」ているに過ぎない。
つまり「虚ろなまなざし」の持つ「他者性」が、我々に「暴力的」に「トラウマ」を与えるのである。トラウマを負った者は、少女を「主体化」して、その声を代弁する。「暴力」を受けた者が、その「暴力」を避けようとして「暴力」をふるう側に回るのである。
そうした「主体化」を拒む者こそ「視たものだけを視たという」者だ。
つまり岡真理の言っているのは、単純に言ってしまえば、こうした「暴力」に負けずに「それ」を直視せよ、ということだ。
そして〈そこから出発するほかに、どうして「文学」が可能だろうか〉と柄谷が言うように、アラブ文学者である岡真理もまた「それ」を「それ」のままに描くことこそが「文学」の使命だと言うにちがいない。
柄谷「場所と」や小林「無常と」の中ではこの苛烈さは特に強調されてはいないが、その困難に向かって柄谷も小林も声を上げていることは間違いない。柄谷が「視たものだけを視たと言え」というのも、小林が「解釈せずに思い出せ」というのも「『それ』を『それ』として見ろ」と岡が言うのと同じことだ。それを実行する困難こそ、これらの論者が共通して言挙げしていることなのだ。
ここでもまた、互いの文脈の中に互いの表現をはめこんで、どちらの文章の主張でもあるようなことを語れる。これは決して単なる言葉遊びでもなければ牽強付会でもない。こうして語りながら、不断に元の、それぞれの文章との比較によって生ずる違和感を測りながら細かく修正しているのだ。
同時に、そうした読み比べによって、始めてこれらの論者の問題意識が確かな手応えで捉えられるのである。
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