2024年7月13日土曜日

弟に速達で 6 論理を追う

 さて、あれこれ考えてみはしたが、なぜ「思い出した」のか、という疑問は、本当は聯の関係によってしか考えることはできない。だからこそ問いは「聯の関係は?」なのだ。

一・二聯 a 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案している

  三聯 b 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す

四・五聯 c 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける

 書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜaに続いてbが語られるのか、またそれがcに続く脈絡は、考えてみるとどうもわからない。

 aとcの関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからだ。だがそこにbを挟む脈絡とはなんだろう。

二聯 命名

三聯 老眼鏡

四聯 北へ行く

 こう考えるからつながりが見づらくなるのであり、関連を考えるためには、共通した要素を想定するとよい。

 何が適切か?


 とりあえず「夢」という単語が発想されればOK。

 糸口となるのは前回の「30歳まで何をしていたか」の想像だ。

 前述した通り、ここにはあれこれと自由な想像の余地がある。

 だが、ともかくはずしてはならない条件として、少なくとも何かしら「夢を追っていた」のだと考えるべきだ。そう考えてはじめて、三聯がこの詩におかれていることの意味がわかるからだ。したがってここに、単なるニートや闘病生活や服役を想定するべきではない。

 そしてこれは一人「おれ」だけではなく、弟もそうなのだ(「おれやきみは」)。そのことが「ノブコちゃん」に「しんぱいばかりかけた」ことを語り手は自覚している。だからこそ定職について給料で買った贈り物に母親が喜んだことを印象深く覚えている。

 さて、「夢を追う」というキーフレーズが提出されたことで、詩の論理を追う手掛かりができた。二聯と四聯の内容を「夢を追う」というフレーズを使って言い換えてみる。

二聯 祖母が孫に「はるか」という名を提案している

  →祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。

四聯 伯父が、自分の夢を見るために北へ行くと宣言している

  →伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。

 こうした言い方に沿って、三聯を言い換えるとどういうことになるか。

三聯 息子が定職に就いたことを母親が喜んだ。

  →息子が「夢を追う」のをやめたことを母親が喜んだ。

 母親が孫に「はるか」という名を提案していることを聞いたとき語り手が「老眼鏡」を思い出すのは、息子が「はるか」な「夢」を見ることをやめた時に喜んでいた母親の姿を連想したからだ。母親はかつて息子が定職に就いて「夢」を見ることをやめたとき、そのことを喜んだのだった。

 そう考えてみると、このプレゼントが老眼鏡であったことにも、いささか穿ち過ぎの解釈ができないこともない。老眼鏡とは遠くではなく目の前を見るための道具である。「夢」を追っていた二十代の終わりに定職に就くにあたって、「おれ」が贈ったのが、「目の前/現実」を見るための道具としての老眼鏡であったことは何か象徴的だと言えなくもない。

 「なぜ思い出したか」はこのように言えるとはいえ、まだこの詩の中で三聯が果たしている役割については一貫した論理が見えていない。その点についてさらに考える。

 ここにはどんな論理が想定できるか?


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