二聯 命名
三聯 老眼鏡
四聯 北へ行く
これを、「夢」をキーワードに言い換える。
二聯 祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。
三聯 息子が「夢を追うのをやめた」ことをかつて母親が喜んだ。
四聯 伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。
ここには微妙な論理の屈曲がある。矛盾と言ってもいい。
母親は息子が「夢を諦めた」のを喜んだ。だが孫に「夢を追え」と願う。
ここに納得できる論理を想定する。
母は息子が「夢をやめた」ことを喜んだはずなのに、生まれたばかりの孫に「夢を追う」ことを願う。そして息子はそうした母親の願いを聞いて、自らももう一度「夢を追う」ことを決意し、あわせて姪にも、母親と同じ願いをかける。一見不整合な展開に授業者は以下のような文脈を読む。
つまりこれは、懲りない一族の物語なのだ。
母は確かにかつて「夢」を追ってなかなか定職に就かない息子達を心配していたし、息子が定職に就いた時にはそれを喜んだ。
だが、考えてみれば息子達をそのように育てたのは当の母親でもある。彼女自身がそれを願ったのだ。そして彼女は今また性懲りもなく孫にも「遠くを見ろ」と願っている。
このとき「おれ」に生じた感慨はどのようなものか。
つまり「おれ」は、母が「はるか」という名を考えたことを聞いて、自分の生き方を、母親から肯定されていると感じ取っているのだ。「おれ」は母親に「しんぱいばかりかけた」が、そんな生き方を、母親は決して否定してはいなかった。
そして定職について母親を安心させはしたものの、「おれ」も相変わらず「小さな夢」を「ずっとたもちつづけ」て、今また母親の肯定を力に北へ旅立とうとしている。そして母親と同じく、姪にも「夢」を見続けろとけしかけるのである。
連綿と続く夢見る一族の性。
これはそうした懲りない一族の物語なのである。
こうした考察によって、詩を構成している論理が目に見える形で浮上してくる瞬間は悪くない。授業者には、ほとんどカタルシスといっていい、興味深い認識の転換だと感じられる。
詩の読解に限らず、授業でテキストを読むときには、しばしばこうした認識の転換が訪れるのが面白い。
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