「暴力的な主体化の問題性」とは何か?
まず「主体化」と「暴力」それぞれ、それらがどのように文中に見出されるかを意識して、再度通読する。その際、主語・目的語の方向性を明らかにする。
何が何を「主体にする」か?
何が何に暴力をふるっているか?
まず本文で「主体・主体化」がどのように使われているかを確認する。
前の部分に「少女に代わって、少女の恐怖を語る主体になる」という一節がある。
「主体になる」のは誰か?
「私たち」だ。
つまり「それ」が「私たち」を「主体化」するのだ。少女の声を「語る主体」に。
後ろの部分には次のような一節がある。
(アフリカの難民の子どもの、その虚ろなまなざし)にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。
ここでもやはり「それ」が私たちを「主体化」する、という。
これは「語る主体」なのだろうか?
だがまた一方でその直前には次の表現もある。
私たちを突如、行動する主体へとかりたてる
「行動する主体」だ。これは「語る主体」と同じと見なしていいのか?
さらに引用する。
- 「それ」が、それ自身の、語りの主体になってくれること
- 「それ」が決して主体―Subject―主語の位置を占めないこと
- 私たちが「それ」に、声なき声を聴き取ることで、「それ」は「それ」であることをやめ、主体化される
これらは全て「語る主体」のことだが、ここでは語るのは少女だ。
さっきは私たちが語るのではなかったか?
そういったそばから次のような表現が頻出する。
- 「それ」を主体化すべく私たちが行動する
- 私たちをこのように行動する主体に駆りたてる
ここでは「行動する主体」のことであり、行動するのは「私たち」だ。
以上のことからすると、「主体」とは「語る主体」と「行動する主体」の二種類がありそうだし、「主体化」の主語と目的語も「私たち」と「少女」の2パターンありそうだ。
「暴力的な主体化」という表現も問題だ。「~的」という形容が曖昧なのだ。
「暴力的な主体化」という表現は、単に言葉の上で三つの解釈が可能だ。
A 主体化そのものが暴力
B 暴力が主体化を引き起こす
C 主体化が暴力を引き起こす
Aは、それ自体が暴力であるような主体化。BCの「暴力」は「主体化」ではない。「主体化」の原因や結果ではあっても、それ自体は別に「主体化」ではないような「暴力」だ。
Bは暴力によって引き起こされた主体化。
Cは暴力を引き起こすような主体化。
いずれも「暴力的な主体化」と表現されてもいい。
そして、文中に言及されるいくつかの暴力と上のいくつかの主体化の関係には、実際にこれらABCのパターンのいずれかに該当するものがそれぞれ登場する。
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