この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。
時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。
主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像する。
いくつかのストーリーの類型を提示した。
○なぜ外にいたか?
a.母親から逃げ出してきて
b.助けを求めて
c.身を売る相手を探して
d.どこかに行く途中で
e.どこかから帰ってきて
上記のような想定の相違には、以下のような前提の相違がある。
○「身体を売る」相手
- シヤウムベルヒ
- 特定の誰か
- 不特定の誰か
○場所の意味
- 教会の前
- 家の前
少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。
例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?
「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。
この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。
さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。
A.エリスの衣服への言及
B.母親の態度
C.花束(室内)の描写
これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定しているストーリーを明らかにする。
どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?
主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?
議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張したストーリーに支持が集まっていく。
相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオだ。
家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。
一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。
このシナリオには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。
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